OG・OB INTERVIEW

OG・OB INTERVIEW

日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」などで山岳カメラマンとして活躍する傍ら、個人でも山行を行う中島健郎さん。
2017年にはパキスタン・カラコルム山脈にそびえる標高7,611mのシスパーレを登攀、2019年には同じくカラコルムの名峰ラカポシ7,788mを新ルートから登頂し、「登山界のアカデミー賞」とも呼ばれるピオレドール賞を2度受賞しています。
登山家として世界から認められる中島さんに、在学中のエピソードや山への想いをお聞きしました。

― 中島さんを一躍有名にしたのは、ピオレドール賞を受賞することになったシスパーレ登攀です。垂直の一枚岩に阻まれ難攻不落ともいわれた北東壁からの攻略でしたが、何か特別な思い入れがあったのでしょうか。

 ほかの山と比べて別格という意識はありません。賞を取るために登ったわけではないので、いくつもある登山の中の一つがたまたま評価されたというくらいです。本来登山にはいいも悪いも、意味なんてありませんから。ただ、シスパーレは登れるかどうかのギリギリのラインで掴んだ頂ではあったので、日本人の頑張りを世界に発信できたことは嬉しく思っています。

― ヒマラヤなど世界の名峰を登頂されている中島さんですが、そのルーツは何でしょうか。

 僕の登山の原体験は、父に連れられて登った奈良の山です。と言っても、はっきりと覚えているわけではありません。美術専門学校で知り合い、自然を愛した両親は、僕が生まれる前から二人で山に登っていたそうです。もともと父が母を誘ってはじめた登山でしたが、僕が5歳の頃に父が他界してからは、母がときどき山に連れて行ってくれるようになりました。きっと、父の代わりを務めようと努力してくれたのでしょうね。

中島 健郎さん

父親との記憶はほとんどないと言うが、幼少期の写真には登山の原点がしっかり記録されていた。

― 小さな頃から自然に親しまれていたのですね。その後、関西学院大学に進んだ理由をお教えください。

 正直なところはっきりした理由はないのですが、今思えば理工学部がある三田も部活のために通った西宮も自然に囲まれたキャンパスですから、僕の性分に合っていたのかもしれません。
 山岳部への入部は入学当初から決めていました。実家の近くには登ってみたい山がありましたが、高校に山岳部がなく、周りにも本格的に登山をしている人がいなかったので、「登りたいけど登り方がわからない」と足踏みしている状態でしたから。今でこそヒマラヤなどに登る僕ですが、入部するまでは低山ばかりで雪山にも登ったことがありませんでした。

― 夏山と雪山登山の違いは何ですか。

 気温も装備も登り方も、全く別物と言っていいほど何もかも違います。大学1年の冬、富士山で初めて雪上訓練を行ったときは、その違いを楽しむ余裕なんて全くありませんでしたね。僕は高度に弱かったので、途中で高山病になってしまいとても苦しかった。寒くて、身体が重くて、吐き気がとまらなくて、「なんでこんな場所にいるんだろう、早く家に帰りたい」とばかり考えて…。ですが、ようやく登りきった山頂から少しずつ明けてくる空を眺めていたら、それまでの苦しさなんてまるで忘れてしまった。ただその場に立ち尽くして、朝日に心を奪われたことを覚えています。
 また、夏山と特に大きく異なるのはルート選びです。夏は登山道が整備されていてルートも決められています。ところが雪山は、地図はあってもルート図はない。登山道は雪で覆われ、進む道も登り方も全て自分たち次第。自分たちで自由に地図を描くことができるのです。その魅力を知ったのは雪上訓練の翌月、槍ヶ岳に登ったときのこと。雪景色の中をひたすら歩き続けて、ふと降り積もったばかりの真新しい雪を前にしたとき、それまで感じたことのない快感を覚えました。まだ誰も踏み入れていない雪道に、初めて自分が足跡を残す、わくわくどきどきした気持ち。多くの人が訪れる人気の山では新雪の上を歩ける機会は多くありませんが、僕は1年のときにこの喜びを経験することができました。

中島 健郎さん

雨が降ったら、止むまで待つ。
どうにもならないことに悩まず、大きな流れに身を任せること。

― 山岳部に入部したことで、本格的な登山へとのめり込んでいかれたのですね。在学中に海外の未踏峰ルートを登頂されていますが、その経緯をお聞かせください。

 当時は学生の登山人口が少なく、関西学院大学を含む多くの大学で山岳部の部員数が減少していて、技術や知識の継承が課題でした。そこで年に数回、文科省の国立登山研修所で行われる研修会に部の代表者が参加して、学んだ技術を部に持ち帰ることになっていました。研修会では一流の山岳ガイドの方から直接指導していただけるほか、全国の大学から集まった山岳部の学生と交流することができます。僕は、ここで出会った仲間たちとヒマラヤをめざすことになりました。研修会に参加していたメンバーと何か特別な登山に挑戦してみたいと話が持ち上がっていたところ、日本最古の山岳会「日本山岳会」が創立100周年記念事業の一環として海外遠征の資金を支援してくれることになったのです。滅多に巡ってこないチャンスに僕たちは興奮しました。参加するメンバー全員が海外遠征未経験者。何もわからなかったからこそ、「せっかくならまだ誰も登っていない道をめざそう」と意見がまとまり、ネパール・ヒマラヤの未踏峰パンバリヒマール(6,887m)を目標に定めました。

― 初の海外遠征、それも未踏峰への挑戦に、不安はなかったのでしょうか。

 富士山より3,000mも高い山ですから、そんな高度に自分が耐えられるのかという不安はありました。メンバーのうち関西からの参加は僕一人だったので、合宿のときだけ東京まで行って、その帰りに一人富士山に寄っては高地トレーニングの繰り返し。富士登山が日本でできる最大限の訓練でしたから、ただ黙々と富士山に登り続けました。そうして地道な訓練を積み重ねて、2006年の秋にようやくネパールの地を踏みました。
 初めての海外、初めての未踏峰挑戦に浮足立ってはいましたが、登りはじめるともう何も考えられなくなりました。見渡す限りどこまでも絶景が広がる中、山頂をめざして足を動かし続けるだけ。富士山で慣らしてはいたものの、やはりなかなか高度に順応できず最初はずいぶん苦しい思いをしました。高山病にもなるし、体力がもたずバテてしまってチームを後方から追いかけるので精一杯でした。高度に順応するためには、3,000mまで登ったら少し下って、4,000mまで登ったらまた少し下ってと少しずつ酸素の薄い空気に身体を慣らしていきます。僕は順応に時間がかかるのですが、半分ほど登った辺りでようやく身体が慣れてきて、チームを先導できるようになってきました。黙々と山を登っていると、何度も「山頂みたい」な景色が見えてきました。もうすぐだ!と勇んで登っても一向に山頂にたどり着かず、そろそろだろうと思っているとまた新たに「山頂みたい」な景色が現れるのです。そんな風にあと少し、あと少しを何度も繰り返しているうちに、何の前触れもなくぱぁっと視界が開けて、いきなり自分たちが山頂に立っていることがわかりました。あのときの感動を、僕は一生忘れることができないでしょう。眼下に広がる、登っているときには決して見えなかった絶景、今までの苦労が報われた喜び、チーム全員が持てる力を全て出しきった高揚感、自分たちがやってきたことは間違いではなかったという自信…、さまざまな感情が一気にあふれて胸がいっぱいになりました。

― 在学中にもう一つ、同じくネパールの未踏峰ディンジュンリ(6,196m)も登頂されていますね。

 学外の仲間との挑戦に成功したので、次は山岳部として挑戦したいと思い、やはり未踏峰を選びました。費用のほとんどはOBの方々が出してくださることになり、ルート選びなどの相談にも乗っていただきました。現役部員は少なくても、多くの先輩方が支えてくださっているのだと感じられて心強かったですね。その頃は登山のために休学していたけれど、関学生として先輩方とのつながりを持てたことはとてもありがたかったです。2007年に偵察と試登を行い、翌年には無事山頂に立つことができました。自分と後輩、たった二人の登山隊でしたが、部として未踏峰を登頂できたことには大きな達成感がありました。

― 現在は山岳カメラマンをされていますが、やはり卒業後も山に関わりたいと思われたのですか。

 卒業後の進路のことは、あまりきちんと考えていなかったですね。ただ、部の合宿中に滑落して、救助隊に助けていただいたことがありました。それで「誰かを助ける仕事もいいな」と思って地元の消防をめざして、内定もいただいたのですが、どこか自分の中でまだ納得するまで登っていないのでは…という思いがあって。消防や一般企業では登山のために長期休暇を取るのは難しいだろうと考え、趣味と仕事を両立できる山岳の仕事を選びました。

― 長く山に携わる中では、危険を感じることも多いのではないでしょうか。

 もちろん、雪山には底の見えないクレバスがあったり、夏山にも滑落の危険があったりと“死”を近くに感じることは多々あります。ですが、自然に囲まれた山の中にいると、どれだけ“死”を恐れても、人間にできることなんてほとんどないということを強く感じますね。だって、雨が続く日は1週間でも10日でもテントにこもって待っているしかない。自然をコントロールすることなんてできませんから。そのうちにいつの間にか太陽が見えて、また登れるようになるものです。こんな風に、僕の登山は「自然の中で遊ばせてもらっているだけ」なのだと思っています。遊ぶとはいえ登っているときはやっぱりしんどいし、荷物は重いし、苦しいんですけど。

  • 阪神タイガース

    仕事やプライベートでの登山も含めて、1年のうち半分は山で過ごしている。しかし、職業は、と尋ねると「登山で収入を得ているわけではないので、自分では登山家とは思っていない」と語った。

  • 阪神タイガース

    たった二人の登山隊。山岳部は部員数こそ少ないが、OBとのつながりが強いのだそう。中島さんも、近く在学生とのヒマラヤ登山を計画している。

― そんな大変な思いをされてまで、どうして登るのでしょう。

 どうしてでしょう。山から降りると、苦しかった記憶はほとんど忘れて、山頂からの景色や澄んだ空気や、美しいことばかり思い出します。それでまた登りたくなってしまうんですね。それと、自然の中に身を置いていると、考え方がどんどんシンプルになっていきます。普段は無意識にいろいろなことに思いを巡らせているけれど、自然の中では余計なことを考えていたら生きていけない。持っていくお菓子一つとっても包装紙を外してコンパクトにするように、考え方もシンプルに、コンパクトになります。その清々しさが心地よくて、自分に合っているのだと思います。僕は今でも山に登りますが、それは社会のためでも、誰かのためでもなく、ただ自分のためだけの楽しみです。人間として究極にシンプルでいられる場所で遊んでいる、好き勝手な生き方をさせてもらっているなと思います。でも、そんな場所にいるからこそ人間の本質について考えたり、自然の驚異に触れることで「人は周りの人や自然に生かされているのだ」と実感したりすることができる。その感覚は、登った人にしかわからないものではないかと思います。だから、僕のMastery for Serviceは、どんな山に登っても、生きて帰ってくることなのかもしれません。生きてこそ伝えられることが無数にあるからです。命を懸けた感動的な登山でも、死んでしまっては伝えることができませんから。

― では最後に、後輩たちにメッセージをお願いします。

 この頃はSNSなどでいつでも簡単に人とつながることができてしまいます。便利な反面、自分と向き合ったり、あるいは何も考えなかったりする時間が少なくなっているということもあるでしょう。山のような圏外になる場所では、ある種強制的につながりを遮断することができる。仕事相手でも「中島さんは山の中か、じゃあ仕方がないな」と諦めてくれます。だから皆さんも、たまにはどこか自然の中に出かけてみてほしいですね。山頂でなくても、パソコンやスマートフォンを見ているだけでは感じられないことがたくさん転がっているはずです。

PROFILE

中島 健郎さんインタビュー風景

中島 健郎KENRO NAKAJIMA

なかじま けんろう / 奈良県高取町出身。両親の影響で幼少の頃から登山に親しみ、関西学院大学では山岳部に入部する。在学中に3度の海外遠征を経験し、2つの未踏峰に登頂。卒業後は山岳カメラマンとして活動し、日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」のエベレスト登山企画などさまざまな番組に参加。2017年、パキスタンのカラコルム山脈シスパーレを未踏ルートから登攀し、優秀な登山家に贈られる国際的な賞、ピオレドール賞を受賞。さらに、2019年にはカラコルムの名峰ラカポシを南面新ルートから登頂した功績が認められ、2度目のピオレドール賞に輝いた。

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