OG・OB INTERVIEW

OG・OB INTERVIEW

ポップスターとして日本の音楽シーンをリードしてきたシンガーソングライターの大江千里さんも、関西学院大学の同窓生の一人。
47歳のとき、それまでのキャリアを捨ててニューヨークでジャズピアニストの道を歩むことを決め、現在は現地で自身のレーベルを立ち上げて活動中です。
何歳になっても自分の音楽を追求し続ける大江さんにご自分の生き方や関西学院大学への想いをお尋ねしてみました。

― 関西学院大学に入学されたのはどんなきっかけだったのでしょうか。

 僕は高校生の頃から音楽活動に夢中になっていて浪人したのですが、予備校に入った後も音楽三昧の毎日は変わらず、授業をほとんど受けていませんでした。大学受験が目前に迫った12月頃に友だちに「おまえ、二浪する気か?」と言われ、そこでハッと目が覚め、「親にも申し訳ないし、何らかの結果は出さなあかん」とようやく関学と同志社を志望校に据えたんです。まずは大学を見に行こうと、阪急の甲東園駅を降り、そこから坂をてくてくと登っていったんですが、途中でコンパスの針くらいの時計台が見えてくると、なんだかときめいてきてね。早足に駆け上がって校門をくぐったら、そこには自分の想像を超える自由な気風が満ちていました。中央芝生の周りをぐるっと歩いてみると、大学生たちの会話が聞こえてくる。彼らに交じって過ごしている自分をイメージすると、キューンと胸が高鳴って(笑)。いてもたってもいられなくなったんですよ。帰りは甲東園駅まで走って戻り、梅田の書店ですぐに関学の赤本を買って、そこからは24時間体制で傾向と対策を勉強。運の助けもあって、なんとか経済学部に合格することができました。

― 実際にどんな大学生活を過ごされましたか。

 入学して真っ先にノックしたのは、軽音楽部の扉でした。いつも部室に入り浸りで、所属学部を聞かれたときは、関西学院大学“軽音学部”と名乗っていました。トーマス・マンの小説である「トニオ・クレーガー」という名称を拝借してフォーリズムのバンドを結成し、僕はピアノを担当。三宮にできたばかりのチキンジョージで毎週1回出演していました。そのうちに足を運んでくれるファンが増えて、各地のフェスやライブハウスに出演できるようになり、バンドコンテストで優勝したことでさらに弾みがついて、4年次のメジャーデビューにつながっていったという流れです。東京でレコーディングしてきたテープを部室に持ち込んで、「これが林立夫のドラムだぞ!」なんて仲間に聞かせて盛り上がっていましたね。そのときの僕らは、ミュージシャンになりたいという想いで深くつながっていました。練習の合間に「プロになったらこんな音楽をやりたい」という夢を仲間と熱く語っていると、ほかの仲間が必死に練習しているのが気になってきて、「あいつには負けられん!」と焦って練習再開という繰り返し。夢だけはデカいけど、青春時代特有の枯渇感があり、ハードルをなかなか越えられないもどかしさとの戦いでした。毎日、部室のカギをかける最後の瞬間まで練習をしていましたね。彼らと分け合ったあの時間は今も輝いています。

  • 関西学院大学にてスペシャルコンサート

    昨年、母校関西学院大学にてスペシャルコンサートを開催。
    ニューヨーク仕込のジャズピアノ演奏で人々を魅了した。

関西学院大学は、夢を追った自分の原点。
この自由さに包まれて、僕はまた次へ進んでいける。

― デビュー後、大江さんが日本の音楽シーンを代表するシンガーソングライターとして知られていったことは多くの方の知るところかと思いますが、2008年に突然それまでの活動を休止して、ジャズの道を進まれたのはなぜですか。

 もともとジャズは中学生の頃から好きだったんです。シンガーソングライターとしてデビューできるチャンスが目の前にあったので、一旦それを脇に追いやっていましたが、それを40代半ばになってふと思い出すことになりました。当時、母親が亡くなったうえに、愛犬や友だちの死も続いて、人生は一度きりしかないということを日々リアルに思いながら仕事をしていたんですが、そんなある日、ショーウインドウに映った自分の顔を見てみると、笑っていないんですよ。ニコッと表情を崩してみたけれど、マトリョーシカのように目の奥の、奥の、奥にいる自分が真顔でこちらを見つめ返している気がしました。50歳まであと3年か。どこで何をやっているにしてもそのときは腹の底から笑って生きていたいな。そう思ったらジャズに取り組みたいという気持ちに火がつき、ニューヨークのジャズの大学の情報を検索して入学の手続きをしていました。もう日本には戻らないという不退転の覚悟を決めて。

― ニューヨークではずいぶん苦労されたとお聞きしましたが。

 ニューヨークの学校で僕には47人の同期がいたんです。その中で僕だけがずば抜けて年齢が高かった。そして僕だけがジャズについて素人も同然でした。そのため、誰もセッションの相手をしてくれず、毎日孤独を味わいました。楽器を弾くチャンスが回ってこないのは恐ろしいですよ。なんとかしなきゃいけない。焦りからギリギリまで授業を詰め込み、無茶をしたせいで腕を壊してしまったこともありました。このときは3カ月間ピアノが弾けなくなり、人の演奏を聞くことしかできなかった。でも、それが大きな転機だったんです。人の音を聞いていると、音が出ているときではなく、出ていない休符の方が大事なんだと気付きました。弾けなかった3カ月が僕を救ってくれたわけです。そんなヒントを得てからは授業の数を少し抑え、余った時間で練習をしたり、街を歩いたり、音楽を聞いたりして、余裕を持ちながら学ぶようになりました。50歳の自分は残念ながら人より高い跳び箱は跳べない。それなら跳べる跳び箱を、誰よりもキレイに跳ぼうと考えるようになったんです。
 そんなある日。発表会で僕が演奏を終えると、「ヒュー、ブラボー千里! マイバディー」と歓声が聞こえてきました。「え?」と耳を疑いながらステージを降りていくと、クラスメイトたちが次々に祝福してくれたんです。僕の演奏を認めてくれているのか。閉じていたドアが目の前で開いた瞬間でした。こうして自信がつき、卒業後は自分でレーベルを起こして、ジャズピアニストとしてデビューしました。5枚のアルバムを発売し、アメリカで定期的にコンサートを行っています。そんな場に、関学の仲間たちはわざわざかけつけてきて、K.G.の旗を振ってくれるんですよ。Mastery for Serviceの精神が彼らには宿っていますね。

  • るジャズクラブで、毎月最終木曜日に演奏

    現在はニューヨークの53丁目にあるジャズクラブで、毎月最終木曜日に演奏。
    そのほか欧米を中心にツアーも実施。

― 大江さんにとってのMastery for Serviceとは、どんなことですか。

 この言葉、素敵ですよね。ただ他者を思いやるという精神論ではなく、具体的なサービス(奉仕)に落とし込むことを謳っているところが、プラクティカルで、どこかカラフルな印象で。僕はミュージシャンですから、やはり僕のできるサービスというのは、人生をかけて向き合ってきた音楽です。
 僕ね、年をとる中で学んできたんですが、世の中の物事や人の心の移り変わりというものは、決して誰かが止めたり、流れを変えたりすることはできないんです。例えば、僕がどれだけ人気を集めたい、曲を聞いてほしいと思ってマーケティングなどの手段を講じても、ほとんど自分の思い通りにはなりません。達観しているわけではないですが(笑)。でもその一方で、僕の音楽が届くところには必ず、これをしっかりとキャッチしてくれる人たちがいる。姿は見えないけれど、そういうサイレントマジョリティとでも呼ぶべき人たちのことを、僕は年を重ねるごとに割とはっきりイメージできるようになってきました。僕の音楽がポップスからジャズに変わっても、そこに共通している大江千里の温度や手触り、イズムを感じとってくれる人たち。大学時代に螺旋階段で耳を澄ますと、誰かが「大江!」と呼んでいる声が聞こえた。あの場所から現在まで僕の心の中ではずっと階段が続いていて、そこにたくさんの人たちが僕を待ってくれている。僕は熱のこもった音楽を、パフォーマンスを、感謝を込めてその人たちに届けていきたいんです。曲を通して、具体的なメッセージを伝えたいという考えはないですね。ただ、その人なりに僕の曲を聞いて何かを感じてもらえたらそれでいい。自分を見つめ直す小さなきっかけになったり、心が弱っているときに、ちょっとだけ今日を頑張って生きてみようと思えたり。そんな人に向けて、曲を作り続けていくことが僕にとってのMastery for Serviceだと思っています。
 思えば僕がアーティストになってヒットチャートで1位を獲得したり、武道館でコンサートをしたり、この歳になっても自分の望む音楽活動を続けたりできているのは、人生のそれぞれのステージで多くの大切な人たちに出会うことができ、それをお互いが自分の舞台で深く落とし込んできたからこそ、点が線になって現在につながってきたという印象です。今58歳を迎えて思うのは、そういう人たちへの感謝ですね。これからは、関わってくれた人たちに、社会に、次の世代に、自分が残していけるものをバトンとして渡していくことも、今まで以上に大切にしたいと思います。

― 2018年には関西学院大学でコンサートを開催されましたが、それはまさにそんなバトンを渡す機会だったのではないですか。

 あのとき、僕の心は最高の喜びに満ちていました。まず日本に戻って来て再び大学の敷地にいられることがうれしかった。アメリカに出発したときは退路を断って行ったわけですから、もう二度と日本に戻って音楽活動はできないだろうと思っていました。でもそんな自分が、大切に思ってきた関西学院大学と、今も深くコミットしているという不思議さ。これは決して自分が望んで得られるものではありません。このコンサートを開催するために、尽力してくださった全てのスタッフに、そして集まってくれたたくさんの後輩たちに感謝していました。自分が大好きな場所に、愛する人たちをお招きすることができて、「エヘン」と胸を張る気持ちと、自然にこぼれてくる笑み。いい時間でしたね。ピアノなんてソロで弾いていると、いつも「大事なところで間違えるんじゃないか」というデビルがやってきて足を引っ張るものですが、そのときの僕は白いエンジェルに導かれている感じ。胸には「いい演奏にしよう」という気持ちしかなく、自由にふくらんでいく自分を感じました。その幸せな感覚が、聞いてくれた人にも伝わっているとうれしいですね。

― 久しぶりにキャンパスを訪れたことは、大江さんの音楽活動に何か刺激を与えるものでしたか。

 年をとると体力や記憶力が衰えたりするけど、感性はミルフィーユのように重なっていく気がするんですよ。関学でコンサートをしていたあのとき、若い頃の自分の姿がありありと見えました。その自分に向かって「あのな…」と耳元でいろいろ伝えたい。そんな衝動にかられたくらい具体的なイメージ。今回はニューヨークに帰っても、その自分がついてきてしばらく離れなかった。自分は今海外でジャズピアニストとして活動していますが、関学のキャンパスにも確かに自分がいて、「人間って二つの軸で生きてるんだな」って妙に納得したことを覚えています。そういえば、あるとき軽音楽部のときの友だちに、「今の大江くんって、よくTVに出てた頃より、大学のときの感じに近いね」って言われたことがあるんです。だいぶ風貌は変わったのにね(笑)。でも自分の中でも、「これからまた名作を生み出していくぞ」というところに気持ちを置くと、大学の頃の自由で必死だった自分が、今の自分と光と影のようにぴったり重なって感じることがあります。やっぱり僕の原点は関学にある。だからこの場所が大切なんです。昨年、関学でコンサートをして、戻ってきた自由さに包まれたときに確かに感じたんですよね。ここから僕はもう一度はじまるんだなって。

PROFILE

大江さんインタビュー風景

大江 千里SENRI OE

おおえ せんり / 関西学院大学経済学部在籍中の1983年にシンガーソングライターとしてメジャーデビュー。自身の音楽を追求する一方で松田聖子や光GENJI、渡辺美里ら多くのトップアーティストに楽曲を提供し、日本の音楽シーンを牽引。2008年にジャズピアニストをめざしてニューヨークの音楽大学「ニュースクール」に入学。卒業後はニューヨークで自身が設立したレーベルからアルバムを発表し、ジャズピアニストとして活躍中。

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