Best Supporters

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File 05藤井 和則さん

自分の意志を信じて、一度きりの人生を全力で走ってほしい。

小学校では野球、中学校では陸上競技と、小さい頃からスポーツに打ち込んでいた藤井大輔。関西学院大学では駅伝選手として数々の大会に出場している。そんな彼を、かつて実業団に所属し長距離を走っていた父親はどのような想いで見守っているのか。その心中を伺うべく、故郷山口を訪れた。

藤井 和則さん

野球選手からランナーへ。スポーツに打ち込む息子を夫婦で支え続けた。

K.G. 関西学院大学では駅伝の走者として活躍されている大輔さんですが、小さい頃はどのようなお子さんでしたか。
藤井さん 背の順で並ぶと最前列か二番目が定位置になってしまうほど身体が小さく、病院通いが日常でした。そのせいか恥ずかしがり屋で、優しい性格とも言えますが自分から前に出るタイプではありませんでしたね。ただし、一度言い出したら聞かない頑固な面もありました。
K.G. どのようなときに頑固さを感じましたか。
藤井さん 3つ上の兄の影響で小学校から地元の少年野球チームに入りました。私も妻と二人で野球のルールを覚え、週末は朝早くから練習に付き合ってキャッチボールやノックをしたり、人数が足りないときはランナー役を買って出たりと熱心に応援していました。試合に勝てば心から喜び、負ければ反省会。一緒に泣いたり笑ったりした時間は私たちの宝物です。ですが彼は、小学校卒業と同時に野球を辞めてしまったのです。野球に全く興味がなかった私が、試合でスコアを付けられるまでに成長したというのに(笑)。

少年野球時代
少年野球時代。小学校卒業までは毎週末、朝早くからの練習に付き合った。

K.G. 家族でのめり込んだ野球を、なぜ辞めてしまったのでしょう。
藤井さん 私たちが説得しても「辞める」の一点張りだったので真意は分かりませんが、身体が小さいことをコンプレックスに思っていたのかもしれません。スポーツは好きでしたし、走ることが得意だったので中学では陸上部に入りました。
K.G. 藤井さんご自身も長距離選手だったのですよね。
藤井さん ええ。実業団に入って、24歳まで走っていました。引退してからは専らテレビでの応援が私の趣味。お正月には家族で駅伝番組を観るのがお決まりでした。だから大輔が陸上を始めると聞いたときは、やはり嬉しかったですね。大輔が出場する試合は、自分が大舞台に立ったときよりずっと緊張しました。でも嬉しさが空回って、いろいろと口出ししてしまって。自分が選手だったせいか、押し付けるつもりがなくてもペース配分はもっとこうした方がいいとか、指導するような口調になっていたのかもしれません。10代前半は親が疎ましい時期ですし、頑固な性格も手伝ってか私のアドバイスには耳を貸そうとしませんでした。特に試合となると熱が入ってしまい、息子以外の選手にまで「ペース落とせ!」とか「前の選手と○秒差!」とか大声で声援を送って、よく煙たがられたものです(笑)。

実業団時代の藤井さん。
実業団時代の藤井さん。大輔さんと同じ長距離ランナーだった。
思い出のスパイク。
親子2代で履いた、思い出のスパイク。

K.G. 大輔さんは当時から良い成績が出ていたのですか。
藤井さん 最初はなかなか結果が出ず悔しい思いをすることが多かったようです。チームメイトには全国レベルの子もいましたから、実力差を感じることもあったのではないでしょうか。ですが、彼なりに懸命に食らいつき、少しずつではありますがタイムを伸ばしていく姿に、親ながら感心しました。高校では私が中学生の頃から付き合いのある先生が陸上部の顧問だったので、親子2代で指導していただけるのは感慨深いものがありましたね。全国大会とは縁遠いものの、熱心に指導してくださる先生とチームメイトに恵まれたおかげで、卒業する頃にはようやく記録が望めるようになりました。煙たがられながらも試合はなるべく応援に行くようにしていたのですが、高校最後のインターハイ県予選は今でも鮮明に覚えています。
K.G. 全国大会へのラストチャンスだったのですね。
藤井さん 中国大会への切符がかかった試合で、6位以内でゴールすることが出場の条件。大輔は、順当に行けば6位以内は確実のはずでした。レース後半になったとき、私はすぐ「まずいな」と思いました。スタンドの誰もがわかるほどの大きな腕の振り、ぐらぐらと安定しない身体、大輔は緊張のあまり脱水症状に陥っていたのです。すぐにでも駆けつけて支えてやりたい。そんな思いをぐっと堪え、少しずつ遠ざかる背中にただ声援を送ることしかできませんでした。なんとかゴールしましたが、一歩届かず結果は7位に終わりました。
K.G. 脱水症状の中でも、よく最後まで走り抜きましたね。
藤井さん 棄権せずにゴールしたことには驚きましたが、さらに胸を打たれたのは、その場に倒れ込んでしまった彼のもとにチームメイトが駆け寄ってくれたことです。みんな大輔を介抱しながら、労いの声をかけてくれていました。陸上はあくまでも個人競技で孤独な戦いだと思っていましたが、大輔は3年間で仲間たちとの強い絆を作っていたんです。

競技者として。人として。知らず知らずに成長する息子を頼もしく感じた。

K.G. 陸上を通して、知らず知らずのうちに大きく成長されていたのですね。子どもの成長を感じることは、親として何よりの喜びでしょう。
藤井さん あのときのことは今思い出しても胸が熱くなります。陸上の話で言うと、もう一つとても嬉しかったことがあります。私がまだ現役で走っていた頃、特注で作ってもらったスパイクがありました。ボロボロになるまで履き潰そう!と意気込んでいたのですが、ほどなく体調を崩してしまって、引退を余儀なくされたんです。数えるほどしか履くことができずキレイなままのスパイクを、何となく捨てられなくて…。それでずっとしまっていたのを大輔に見せたところ、最近の流行とは違った珍しいデザインに興味を示したので、「ちょっと履いてみるか?」と聞いてみました。すると意外にもすんなり履いてくれて、サイズもぴったりだったのでそのまま譲ることができました。まさか自分のスパイクを息子が履く日が来るとは思ってもみませんでしたね。そのスパイクで大会にも出場してくれたので、自分の姿を重ね、さらに私が走れなかった道の先を走ってくれているようで感動しました。
K.G. そんなドラマがあったのですね。意志を継いで走ってくれているようで感慨深いでしょうね。その後、いよいよ大輔さんは故郷山口を離れることになりますが、関西学院大学を選ばれた理由はなんでしょうか。

藤井さん 私がこれまで接してきた関西学院大学出身の方は、ほかの大学にくらべて母校愛が強い方が多いように感じていました。進路について私が意見することはほとんどありませんでしたが、そんな印象もあって関西学院大学なら大丈夫だろうという安心感がありました。実家を離れることに対して妻は少なからず心配していたようです。私も心配な面はありましたが、息子の成長を考えたときに心配を上回る期待感がありました。親元を離れ、地方出身者や留学生など多様な人が集まる大学で学ぶことで、大きく成長してほしいと願って前向きに送り出しました。また、先輩の紹介で甲月寮という学生寮に入れたので、一人暮らしよりも心配は少なかったですね。田中さんという大家さんがとてもいい方で、歓迎会やイベントを開いたり、体調を崩したときは病院に付き添ってくださったり、何かと世話を焼いていただいているようでした。

K.G. 大輔さんは大学でも陸上を続け、全日本大学駅伝や出雲駅伝など大きな大会に出場されるようになりましたね。長距離選手として成長するきっかけが、何かあったのでしょうか。
藤井さん 私の知らない場所で、さまざまな成長の機会があったのでしょうね。教員や指導者の皆さん、先輩や同期、後輩、そして甲月寮の田中さん。すばらしい方々に恵まれ、彼もその期待に応えるよう努力したのだと思います。また、大学に入ってからは私にLINEで陸上についてのアドバイスを求めてくるようになりました。親元を離れてみて、ありがたみを感じたのかもしれません。一緒に暮らしていた頃はこちらからアドバイスしても無視されることすらあったのに。周囲の意見を聞き入れ素直に実践できる、謙虚さを持った人へと成長してくれました。
K.G. 実家を離れて初めて気付くことが、誰にもあるものですね。試合でも、高校時代と変わらずチームみんなに声援を送られたのですか。
藤井さん そうですね。応援に行く回数は限られましたが、全日本大学駅伝や出雲駅伝には駆けつけることができました。私はコースの中でもみんなが応援しないようなマイナーなポジションを選んで声をかけるようにしていましたね。選手時代の経験から、ギャラリーが少ない場所こそ走る側にとっては苦しくて、心が折れそうになると知っていましたから。そういったタイミングで沿道から声が聞こえると、力が湧いてもうひと踏ん張りできるんですよ。誰もいない場所から応援して、しかもタイムや前後の選手との差を細かく伝えるので、みんな「また藤井のお父さんや」と気付いていたようです。でも大輔は、もう以前のように恥ずかしがることはなくなっていました。
K.G. 陸上以外では、成長を感じる場面はありましたか。
藤井さん 先日、甲月寮の田中さんとお話したときに、「藤井くん、変わりましたよ」と教えていただきました。4年になって後輩が増えてから特に、後輩に声をかけたり食事に誘ったり、自分からコミュニケーションをとって寮のみんなを引っ張っているのだそうです。あんなに身体が小さく引っ込み思案だった幼少時代からは想像もつかない姿ですね。本人にこの話を聞いてみたら、「なんで知ってるん?」と驚かれました。

我が子の走る道を、いつでも肯定し応援してやれる存在でありたい。

K.G. 大輔さんは現在4年生。進路や将来の目標についてどのようなアドバイスをされましたか。
藤井さん 陸上が共通の話題なので、そのついでに話す程度ですね。子どもが困ったときにはもちろん手を差し伸べますが、ときには自力で何とかする姿を見守ることも必要だと考えています。私も両親から特別なサポートをしてもらった感覚はあまりなく、その代わりやりたいことは何でも自由にさせてもらえたので、子どもたちに対してもそうありたいですね。人生にとって大切なのは、自分が納得のいく道に進むこと。後から悔やむくらいなら、失敗してもいいからチャレンジしてほしい。そのための環境を整えることが、親としての役目だと思っています。

K.G. これから社会に出ていかれる大輔さんに、どのような大人になってほしいとお考えですか。
藤井さん ありがたいことに大輔は関西の企業に内定をいただきました。山口に帰ってこないことは寂しくもありますが、陸上を通して鍛えた体力面、精神面の強さを武器に、社会に出てさらに逞しく成長してくれることを期待しています。また、陸上部や甲月寮の皆さんをはじめとする仲間の存在は、今後の人生の大切な財産です。今後働いていく中では、年齢も立場も異なるさまざまな人と関わることになりますが、ほかの人の考えを受け入れられる寛容さを持って豊かな人間関係を築いてほしいと思います。
K.G. 今日はお話をお伺いして、陸上を通して成長する我が子を見守る、親の深い愛情を感じました。藤井さん、どうもありがとうございました。

陸上競技に出会い、10年間夢中で挑んでこられたのは、
家族の存在があったからこそ。

藤井 大輔 関西学院大学 法学部 4年生

元陸上選手である父から、持久走大会に向けて近所の公園を何周も走るなど指導を受けたことが競技との出会いでした。この熱心な指導は変わらず続き、地元を離れ関学に進学してからもアドバイスをもらってきました。そして幼い頃から家族でTV視聴し憧れであった出雲駅伝・全日本大学駅伝に出走した際も、沿道に駆けつけ応援してくれました。
競技面では父、生活面では母に支えてもらうことで10年間真剣に競技に向き合うことができ、また競技を通じてさまざまな経験をしたことで人間的にも成長する機会を与えてもらいました。
これからは支えてもらった分の恩返しをしていくと同時に、家族を持った際にはやりたいことに全力で挑戦させてくれた両親のようになりたいと考えています。

ふじい だいすけ/小学校では少年野球に打ち込み、中学からは父の影響を受け陸上を始める。関西学院大学陸上部に所属し、出雲駅伝、全日本大学駅伝などで活躍。2020年4月より株式会社神戸製鋼所に勤務。