Best Supporters

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File 02徳野 義信さん

すぐに手を差し伸べるのではなく、立ち向かう姿を見守りたい

勉強や部活動、アルバイト…さまざまなことに挑戦し、出会いを重ね、自分の世界を広げている子どもたち。その成長のそばには、3人をまっすぐ見守る父の姿があった。

徳野 義信さん

子どもたちがいてくれるから、毎日の仕事を頑張れる。

K.G. 徳野さまのお子さまは、長女の優海さんが関西学院大学3年生、次女の奏海さんが関西学院高等部3年生、長男の翼さんが関西学院高等部1年生ですね。姉弟2人が関西学院に通っているという方は多くいらっしゃいますが、3人とも関西学院というのは非常に珍しいそうです。
徳野さん そうなんですか。どうやら下の二人が特に関西学院に強いあこがれをもっていたようです。
K.G. 姉弟は“一番身近な先輩”でもあるので、お姉さんの影響力が大きかったのかもしれませんね。本日は、3人が関西学院の併設校に入学された理由や、今までお父さまがどのようなサポートをしてこられたのかをおうかがいします。まず徳野さまにとって、お子さまはどういう存在でしょうか。

家族写真
さまざまな場所で撮った家族写真。どれもがかけがえのない思い出。

徳野さん “生きる原動力”でしょうか。子どもたちの顔を見たり、話を聞くだけでも、ほっとしたり、頑張ろうと思えたりします。仕事をすることで子どもたちをサポートしていますが、子どもの存在そのものが仕事をする支えになっているとも思います。とても大切な存在ですね。
K.G. ご家族との一番の思い出は何でしょうか。
徳野さん たくさんあるのですが…子どもたちが小さい頃はよく家族でキャンプに出かけていました。私の仕事の都合で何度か引っ越しましたが、新しい土地で一緒にいろいろな場所を見て回るのは楽しいものでした。アメリカにいた頃は、バケーションのたびに各地の国立公園などいろいろな所へ旅行に出かけていました。子どもたちが大きくなり、今は少なくなってしまいましたが、家族で過ごす時間は宝物です。

苦労や努力を重ねたアメリカ時代。
ここでの経験はきっと、将来の大きな力になる。

K.G. アメリカにもいらっしゃったんですね。
徳野さん 5年ほどいました。子どもが生まれてからは東京、名古屋、アメリカ、大阪で過ごしました。
K.G. 海外で暮らすとなると、お子さまは言葉の面など何かと苦労されたのではないでしょうか。
徳野さん ええ。優海と奏海は、それぞれ小学校5年生と2年生の終わりに転勤したので、環境の変化に戸惑っていました。英語をしっかり学ぶ時間もないままいきなり現地校に通うことになり、何事においても積極的に発信することが求められる中で、言葉が一切わからない、話せないというのは、本当につらかったと思います。
K.G. そのようなお二人の姿を間近で見るのは、お父さまにとってもつらかったのではないでしょうか。何かサポートなどされましたか?
徳野さん そうですね。親としては、学校について行って一つひとつサポートしてあげたいという気持ちにもなりましたが、当然そんなことはできません。最初のうちは「学校に行くだけでいいから」と言い、スクールバスに乗っていく娘たちの姿を見て、何とか早く環境に慣れてほしいとただ願うしかできませんでした。
K.G. 翼さんも同じような感じだったのでしょうか。
徳野さん いえ、翼は違っていましたね。幼稚園のときに行ったからか、現地校や地域のサッカークラブでもすぐに溶け込んでいました。学校では生徒会にも参加し、代表でパレードのリーダーに選ばれたりととても活躍していましたよ。アメリカから日本に帰るときには友だちと抱き合って泣いていたのも印象的でした。充実した北米生活を送れたのではないでしょうか。
K.G. やはり親にとっては、子どもがイキイキ過ごしている姿が一番ですよね。先ほど、「英語をしっかり学ぶ時間もなかった」というお話がありましたが、勉強面はどうでしたか。
徳野さん ほとんど休まず現地校にも通い、リスニング能力が向上し、自宅でも宿題を一生懸命こなしていました。2年ほど経った頃からでしょうか。学校での成績がトップクラスに。3人とも表彰を受けるなど大きな成長を見せてくれました。本当に驚きましたね。きっと、私の知らないところでたくさん努力を重ねてきたんだと思います。
K.G. 当時のことについて、お子さまたちと話をすることはありますか?
徳野さん 以前、優海から「転勤は本当は嫌だった。日本にいたら、もっとおもしろい学生生活を送れたかもしれない」と笑ってですが、言われたことがあります。親の勝手な都合で仕方のないことではあるのですが…その経験を成長の糧にしてくれたと信じています。
K.G. なぜ3人は全く異なる環境の中でも頑張ってこられたのでしょうか。
徳野さん そうですね…。翼は現地校でたくさんの友だちがいてくれたからだと思いますが、3人に共通して言えるのは、毎週土曜日の日本語補習校で現地在住の日本人と交流できたことが大きかったのではないでしょうか。毎週楽しみにしていたようで、それが現地校に頑張って通うモチベーションになっていたのかもしれません。あとは私自身、家ではつねに些細なことでも3人と話すことを心がけていました。この子たちのどんなことでも気づけるようにしようと、コミュニケーションを大切にしていました。また、子どもたちが少しでも楽しみながら英語に慣れることができるよう、妻と子どもたちで一緒にテニススクールにも通っていました。楽しみながら言葉やジェスチャーが自然と身につき、それもアメリカの生活に少しずつ慣れていけた要因かもしれません。
K.G. お友だちとの出会いや、お父さまとお母さまのサポートがあったから頑張れたのですね。アメリカで過ごしたあと、優海さんは関西学院千里国際高等部(以下、千里国際)へ入学されたそうですが、その決め手は何だったのでしょうか。
徳野さん アメリカには高校1年生の途中までいる予定だったので、編入するにあたって、公立の高校にするか私立にするか、また優海だけ途中帰国させるかなど、かなり迷いました。ですが一時帰国した際に千里国際を見学する機会があり、現地校に似て自主性を尊重してもらえる自由な校風やレベルの高い英語教育、同じように帰国子女がいるところなどとても気に入ったようです。しかもアメリカで受験ができる体制も魅力的でした。合格したときには本当に安心しましたね。
K.G. 奏海さん・翼さんはなぜ関西学院千里国際高等部ではなく、関西学院高等部だったのでしょうか。
徳野さん 下の二人はすぐに受験しなければならないという状況ではありませんでした。帰国後は府内の公立中学校・小学校に通わせていました。ただやはりと言いますか、いかにも日本らしい英語の授業方法に違和感があったようです。「逆にむずかしい」と。ですので優海から千里国際の学生生活について聞くたびに、羨ましいと感じていたのでしょう。優海が千里国際から関西学院大学への進学を希望していたということもあり、奏海も関学に興味を持ったようです。奏海の高校受験の年は、前年に関西学院高等部が女子学生を受け入れてから2期目でした。体験授業に参加した際、特に英語の授業がネイティヴそのもので印象的だったとか。また、こんなにきれいな学校で学びたい!とも言って、目を輝かせていました。翼も奏海と同様に体験授業での印象が非常に良く、また奏海から学校生活や部活動の話を聞き、高等部への進学を決めたようです。

徳野 義信
徳野さんテニスラケット
アメリカ時代は家族でよくテニスへ。現地の人たちと仲を深めるきっかけとなった。

父親は、家族の“縁の下の力持ち”。
何かあったとき、しっかりと応えられる存在でありたい。

K.G. 普段はお子さまにどのように接しておられますか?。
徳野さん 何かこれと言って特別なことはしていないですが…たとえば奏海の場合だったら、テニス部の試合があるときには、できる限り送り迎えをしています。車の中で特に何か話すわけではありません。「頑張れ」「頑張る」それぐらいかな。それぐらいでも、今日は機嫌がいいとか悪いとか何となく分かります。でもあえて深くは聞きません。本当に困ったときに彼女からきっと言ってくれるだろうと。それが父の役割だと思っています。
K.G. 徳野さんの考える、“父の役割”とはどのようなものでしょう。
徳野さん 父親は、家族の縁の下の力持ちなのかなと思います。3人とも、学校やプライベートのうれしいことや不満などはよく妻に話していますね。妻のほうが子どもたちと一緒にいる時間が長いというのもありますが、つねに近くにいて話を聞いてあげるのが母親で、少し距離を置いて見守るのが父親なのでしょう。だからこそ何か困って頼ってきてくれたとき、しっかり応えられる存在でなくてはならないと考えています。思い返せば、私の父親もほとんど干渉してこなかったですね。それが父の務めなのかもしれません。きっとこのインタビューを読まれているみなさんも同じだと思いますが、子どもに無関心な親はいないと思います。目は離しても心は離さず、一人で生きていけるようそっと見守っていきたいと考えています。そういえばこの取材のお話をいただいたとき、ふと、奏海に訊いてみたんです。「奏海にとって、お父さんってどういう存在?」と。「えー、分かんない」なんて笑って濁されてしまいましたが(笑)。
K.G. 照れくさいのかもしれませんね。
徳野さん 確かにそうかもしれません。奏海や翼の試合には仕事の都合がつく限り、妻と応援に行くのですが、年頃なだけあって「来ないで」とか「試合を見ないで」と言われたこともありますね。
K.G. お父さまからすると寂しいのではないでしょうか。
徳野さん 寂しさも多少ありますが、子どもの成長は本当にうれしいものです。優海に関しては大学生になり、かなり社会性が身についてきたように感じます。友人に誘われて総部放送局に入部し、先輩や同輩たちと遅くまで活動に取り組んでいたり、アルバイトに関してもTV局での動画編集や塾など3つも掛け持ちしているとか。本業である学業が心配になりますが、授業の単位もほぼ取得済みで、3年生の後期からはゼミを残すだけとのこと。本当によく頑張っていますね。来年は就職活動が始まりますが、できる限りのアドバイスをしてあげたいと思っています。奏海はテニス部が楽しいといつも言っています。友だちとちょっとしたカフェに行く…とか高校生らしいこともしているようです。翼も奏海と同じテニス部に入部しました。関学テニス部は厳しいながらも一体感がある!とうれしそうに言って、頑張っています。そうやって外部との接点を増やし、自分の世界を広げていくというのは、成長には欠かせないことです。途中でいろんな人と出会い、多くのことを考え、ときには失敗もするかもしれません。ですがその中で学んだことは彼女たちにとって大きな財産になるはず。私はそれをきちんと見守りたいですね。

アメリカでの日々が、今の私の力になっています。

徳野 優海(左) 
関西学院大学 社会学部 3年生

数年間のアメリカ生活は私の人生に多大な影響を与えています。物事の考え方や性格など、今の私を形成するルーツの大半はこの時期の経験からきていると思います。苦労の多い日々でしたが、今となっては確実に私の力になっており、あの時間は決して無駄ではなかったと断言できます。毎学期30単位ほど授業を取っていることや部活、バイトの影響で家族と過ごす時間は少なくなってしまいましたが、両親の存在はいつまでたっても私の支えになっていますし、年に数回の家族旅行は一番の楽しみです。今後は就職活動なども始まりますが、これからも両親への感謝を忘れずに生きていきます。

楽しい思い出がたくさんあるのは、お父さんのおかげ。

徳野 奏海(中) 
関西学院高等部 3年生

この18年間を振り返ってみると私にとってアメリカにいた約5年はとても大きなものになりました。最初は全く英語もわからず何を言っているのか全然通じなくて大変だったけど、徐々に理解できるようになっていき、とても濃い時間を過ごすことができました。また、アメリカに住んでいたおかげでグランドキャニオン、アラスカ、メキシコなど日本に住んでいたらあまり行けないさまざまな場所を観光したことも忘れられない楽しい思い出です。これらのことができたのはお父さんが遅くまで私たちのために働いてくれたおかげだと思います。これからもこの経験を生かして頑張っていきたいです。

いろいろな経験ができたから、充実した今がある。

徳野 翼(右) 
関西学院高等部 1年生

今思えば、いろいろな場所での生活が僕にとってとても大きなものになっていると思います。特にアメリカでの生活は僕の宝物となりました。最初は環境が急に変わり、不安でいっぱいでしたが、英語もしゃべれるようになり、アメリカ人の友だちもたくさんできました。さまざまな人との交流など充実した生活を送ることができました。このような経験をさせてもらった両親には感謝しています。また帰国後は関西学院に入学でき、勉強や部活動など充実した高校生活を送れていることも感謝しています。お父さんは夜も遅く忙しそうですが、体に気をつけて頑張って長生きしてほしいです。ありがとう。