テレビドラマを経て映画の世界へ。いつも根底にあるのは「好きなことを追い求める」というスタンス。

脚本家であり映画監督でもある尾崎将也さん。中学時代に映画の世界へ惹き込まれ、制作者になることを志します。1978年に関西学院大学文学部へ進学し、映画サークルに所属しながら創作活動を始めます。映画監督になる夢を抱きながらも、卒業後は広告制作会社へ就職。トレンディドラマの流行とともに創設された「フジテレビヤングシナリオ大賞」の公募をきっかけに、テレビドラマの脚本家になることを考えるように。1992年、同賞を受賞し脚本家としてのキャリアをスタート。『アットホーム・ダッド』『結婚できない男』などのヒット作を生み出します。2010年には『ランデブー!』で長年の夢であった映画監督デビューを果たし、活躍の場を広げる尾崎さん。今回は、映画制作の世界を志したきっかけや大学在学中の思い出、今後の目標などをお聞きしました。

自分の好きなことに突き進む性格。
自由な校風の中で開かれた、映画制作の扉。

映画や創作の世界を志すきっかけはどのようなことでしたか。

中学校に入って、ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』を観たことがきっかけで映画オタクになりました。そして、将来は映画監督か脚本家になりたいと考えるように。観賞するだけでなく作り手になりたいと思ったのは、私がそういう性分だからとしか言いようがないかなと思います。中学校・高校は進学校で、とにかく真面目に勉強しろと要求される日々。そこで気付いたのは、自分は勉強が好きではないということ。自分のやりたいことしかやらないタイプなので、毎日真面目に勉強しろと言われることに疑問を抱きながら、周りの生徒と自分の感覚が異なることを感じていました。関西学院大学へ進学してからは、束縛された環境から抜け出して自由を得たような気持ちでした。キャンパスが綺麗なことにも感動しましたね。単に勉強に専念するわけではなく、学生それぞれが好きなことをして過ごす大学生活は、高校時代とは大きく異なり最初はカルチャーショックを受けました。

関西学院大学ではどのように過ごされましたか。また学部での学びが今のお仕事に役立っていることがあれば教えてください。

私は文学部日本文学科に所属していました。論文を書くためには文学作品を読んで分析して、そこで人間がどのように描かれているかをしっかり捉え、追究することが必要になります。作品を構造的に分析すること、そして人間を深く突き詰めて考えていくこと。大学時代に経験したこれらの学びは脚本家の仕事にほぼそのまま活きています。関西学院大学に入って、興味のあることに没頭できる環境の中で私が選んだのは「映画をつくる」ことでした。撮影は今やデジタルが当たり前ですが、当時はフィルムの時代。アマチュアが映画を撮るには8ミリフィルムの選択肢しかなかったので、これで映画を撮り始めました。1年次から映画サークルに所属して、在学中に5~6本の作品をつくりましたね。撮影場所は学内が中心だったので、撮影中に通行している学生が映り込むのを防ぐのに必死でした(笑)。まだ大学生だったので、技術がなくお金もない。そんな状況のため、出演者もプロの俳優ではなく友人に協力してもらうしかありません。俳優ではない彼らにどう演じさせるかという時に、「演技させない」というやり方を見出しました。つまり、脚本にセリフを書いてその通りに演じてもらうのではなく、シチュエーションだけ作ってあとは自由に演じてもらうのです。例えば、男性が女性をデートに誘ってOKをもらうシーン。素人なりにアドリブで演じてもらうと、そこにはリアルに近いドキドキ感が生まれたのです。この方法は意外にうまくいくと感じて、取り入れるようになりました。多種多様な映画を観ていたので、自分も挑戦してみたい作品スタイルがたくさんありました。例えば、『セーラー服と機関銃』などで有名な相米慎二監督は長回しが非常に特徴的。自分もどのくらい長回しで撮影できるのか試してみたこともあります。映画サークルでの活動は、自分が憧れていたものを実験する場でもありました。作品を披露する場としては、関西地区の大学の映画サークルによる合同上映会や大学祭がありました。自分が撮った作品を、皆がどんな表情で見るのかを間近で観察できる機会。意外なところで笑いが起こるなど生の反応が見れるので、作品づくりにおいて参考になりました。

卒業後は広告制作会社に就職されました。当時の心境やサラリーマン時代の思い出を教えてください。

当時、映画監督になることはとてもハードルの高いことでした。今や映画はiPhoneでも撮れるし、編集すれば誰でもYouTubeで公開することもできますが、フィルムで撮影したものを上映するにはものすごくお金がかかりました。監督になるためのステップもはっきり明示されておらず、進む道に迷ったので一度就職することにしました。広告業界を選んだのは、自分の資質に合っていると感じたから。約4年間のサラリーマン生活の中で、無駄だったと感じることは何もありません。「広告をつくる」ということは、クリエイティブという点で脚本や映画をつくることと同じなので、関係者と協働してものをつくりあげる訓練になりました。

シナリオ公募がきっかけで見つけた「テレビドラマの脚本家」という選択肢。
自分自身をモデルに主人公を描いた作品がヒット。

脚本家デビューされたきっかけや、印象深い作品について教えてください。

会社に入ってから80年代の後半頃にトレンディドラマが流行しました。『東京ラブストーリー』や『101回目のプロポーズ』などが代表的ですよね。ちょうどその頃に「フジテレビヤングシナリオ大賞」という、テレビドラマで活躍する若手脚本家を募集・育成するためのシナリオ公募が始まりました。監督を志しているものの実現できず会社に勤めている状態の私。これからどうするべきか悩んでいた時に、この公募がきっかけで「テレビドラマの脚本家」という選択肢があることに気付きました。脚本の執筆自体は以前から興味がありましたが、具体的な目標としてテレビドラマの脚本家が見えてきたのはこの頃から。退職後に上京し、1992年に『屋根の上の花火』という作品で第5回フジテレビヤングシナリオ大賞をいただきました。

デビューしてから手掛けた作品の中で、特に印象に残っているのは『結婚できない男』です。この主人公は基本的に自分自身をモデルにしています。阿部寛さんが主人公を演じるにあたってどんなキャラクターにするかを考えた時に、描きたいのは「偏屈な男」でした。つまり自分なのかと(笑)。そうして書いたらウケました。妻に「あなたってこうよね」と自分を客観視されることで気付く点も多く、演出のヒントにも役立ちました。ドラマの視聴者から「うちのお父さんそっくり」「私の兄もこうなんです」というような声も多く寄せられ、世の中には偏屈な人間がこんなにたくさんいるのかと思いましたね(笑)。

ふとした瞬間に再確認した映画監督になることへの想い。
海外展開も視野に入れて活動の場を広げていきたい。

2010年には映画監督としてデビューされました。テレビドラマだけでなく、映画にも挑戦されたきっかけはありましたか。今後の目標と合わせて教えてください。

テレビドラマの脚本家として活動中に、ある社会人の集まりに参加した時のこと。各々が自分の今後の展望について話している中で、自分は何がしたいんだろうと思いました。そこでぱっと出た言葉が「映画を撮ります」でした。やっぱり自分は映画が撮りたかったんだと再確認した瞬間であり、転換点となりました。映画をつくる作業は複雑多岐に分かれます。映画の撮影といえば、カメラがあって俳優が演技するイメージが強いと思いますが、実際はその前の準備や、撮影後の編集など多くの工程があります。私は、その中のどこが好きというわけではなく、それら一連の流れに楽しみを感じます。監督と脚本家、どちらがしたいという強いこだわりはありませんが、私は自分が監督する映画は脚本も自分で書きます。映画制作の中で印象に残っている出来事は、数年前に『世界は今日から君のもの』という映画を撮った時のこと。この映画のヒロインも、『結婚できない男』の主人公のように自分の分身と感じる要素がありました。主演の門脇麦さんがとても上手に表現してくれるのですが、撮影中に演じている彼女と自分との区別が分からなくなるような不思議な感覚に陥りました。他人と一体となるような感覚は、他の職業では味わうことがないだろうなと思いますね。私には、国内に留まらず海外にも出ていきたいという思いがあります。もちろん日本のテレビドラマの仕事も面白いですが、海外展開も視野に入れて自分の活躍の場を広げるため、今後も映画というジャンルで挑戦を重ねていきたいです。

My History

私の成長年表

関西学院大学の後輩へメッセージ

人生好きなことをやってナンボです。昔は大学卒業後に大手の会社に就職して、定年まで勤めて年金もらうという人生モデルが有効でしたが、今ではそれが崩れつつあります。決まりきったレールが無くなったからこそ、「自分は何をやりたいのか」を発見して突き詰めていく必要があると思います。ただし、好きなことを見つけるタイミングは人それぞれ。私の場合はそれが比較的早く、中学生の時でした。いつか自分が心を動かされるようなものを見つけた時に、臆せず突っ込んでいくことが人生を楽しく生きるためのヒントになると思います。