憧れから始まった、プロ野球選手への道。
積み重ねてきた日々を信じて、歓声を原動力に突き進む。
日本プロ野球界を代表するリリーフピッチャーとして、進化し続ける宮西尚生投手。幼いころから野球をはじめ、高校生の時プロを志すように。大学入学後は、恩師である本荘監督との出会いを契機に、技術面で大きく向上。4年間積み重ねた努力が実り、北海道日本ハムファイターズへの入団が決まりました。それから19年にわたり、第一線で活躍。今回は、人生の転換期となった大学時代の経験とプロの世界で戦い続けるための「原動力」について、お話を伺いました。
「無駄なことなんて1つもなかった」今を支える学生時代の経験
関学に入学された理由を教えてください。
関学野球部は関西学生野球連盟という非常にレベルの高いリーグに所属しており、ここでなら投手として成長できると思い志望しました。入学前のイメージは「学力が高く、合格するのも卒業するのも難しい大学」というもので、正直不安も多かったです。しかし、高校時代の憧れの先輩が他大学の野球部で活躍されていたので、「絶対に同じリーグで対戦したい」という一心で受験勉強に取り組みました。入試で印象に残っているのは面接ですね。担当の方が野球好きで、面接中に地元の球団の話で盛り上がり緊張がほぐれました。そのおかげで、野球に対する思いや将来のビジョンを自分らしくしっかりと伝えることができたのだと思います。
入学後の学生生活は、いわゆる華やかなキャンパスライフとはいきませんでした。硬式野球部は制服着用が義務だったので、授業で目立ってしまって。当時はちょっと恥ずかしかったりもしました。学業面では、入学してすぐの英語の授業でいきなり壁に直面。ネイティブの先生が授業を担当されていたので、常に英語での会話を求められ「もうついていけない…」と感じました(笑)。しかし、学生時代にネイティブな英語に触れたことが、プロに入ってから助っ人外国人選手とのコミュニケーション等で活かされていると感じます。英語を上手に話すことは難しいですが、耳が慣れているからか聞くことに抵抗がありません。学生時代の経験に無駄なことなんて1つもなかったなと今は思います。
イメージを技術へ落とし込むため、グラウンドへ通い詰めた日々
大学での部活動は今の宮西選手にどう影響を与えていますか。
大学は高校までと違って「自主性」が全てでした。高校までは野球も教育の一環ですが、大学では練習に行くも行かないも自分次第。人数も多いので、サボろうと思えばいくらでもサボることができます。そんな中でも自分を律してグラウンドに行くかどうかが、そのまま結果につながるんです。この時培った自分との戦い方、練習の組み立て方は、プロに入ってからの自主トレの基盤になりました。
技術面においても、大学時代は大きな転換期であったと感じています。高校までは本格的な技術指導を受ける機会が少なかったので、上手な先輩のプレーを観察してよく真似をしていました。「観察し、考え、自分の体に落とし込む」というプロセスを繰り返したことで、「考えてプレーする力」が養われたと思います。この高校時代に培った「思考の土台」が、素晴らしい指導者との出会いによって一気に形になりました。それまで頭の中にあった抽象的なイメージが、具体的な身体の動きとして1つに結びついたのです。「なぜこの動きが必要なのか」を理論的に理解できた大学2年生の時、パフォーマンスが大幅に向上しました。もし、高校時代に培った思考力がなければ、大学で技術を教わっても、これほど深く自分のものにはできていなかったでしょう。
一球に懸ける覚悟と責任
プロの世界で戦い続ける中で、支えになっているものは何ですか。
リリーフピッチャーは、バッターを抑えて当たり前。一球のミスが試合の明暗を分けるという重圧がのしかかります。しかし、プロの世界に入ってからは、やめたいと思ったことは一度もありません。常に結果が求められるシビアな世界ですが、私にとっては家族を守るための大切な仕事でもあります。何より、この華やかな舞台で戦い続けられることのありがたさを知っているからです。プロ野球の世界に入って19年目を迎え、モチベーションの保ち方について聞かれることが増えました。その答えはいたってシンプルで、「野球が好きだ」という気持ちと、打者を抑えた時にファンやチームメイトが見せてくれる喜びの表情、それに尽きます。もちろん、結果が出ずに苦しいことのほうが圧倒的に多い世界です。それでも、すべてを補って余りあるほどの喜びがマウンドにはあります。忘れられないのは、2016年の日本シリーズです。1点差、2アウト満塁という絶体絶命の場面。マウンドに立つ私の足は、自分でも驚くほど震えていました。そんな張り詰めた緊張感の中、理想通りのボールで打ち取った瞬間の地鳴りのような歓声。そして、仲間たちが満面の笑みで駆け寄ってきてくれた光景は、何年経っても色褪せることのない、一生の宝物です。
最後に関西学院に通う後輩へメッセージをお願いいたします。
社会に出て改めて気づかされるのは、日本各地で関学のOB・OGの方々が活躍されているということです。遠征先で出会う先輩方の姿を見るたびに、この大学の凄さと絆の強さを実感し、卒業生であることを誇りに思います。後輩の皆さんにはどんな分野であっても、思い描いた目標に対して「これがやりたい」と思い続ける熱意を大切にしてほしいと思います。そして結果以上に、その目標にどう取り組んでいくかという「過程」を大事にしてください。困難にぶつかった時、自分を支えてくれるのは、必死に取り組んできたという過程から生まれる自信です。皆さんが将来、誇りをもって「関学を卒業した」と言えるような活躍をされることを期待しています。日本、そして世界で活躍する後輩たちのニュースを聞くことが、私たちOBにとって何よりの喜びです。私も一人の先輩として、皆さんを心から応援しています。
ⒸH.N.F.
プロ野球選手になるという強い思いを持ち、それに向かって一生懸命努力する部員でした。特に印象深いのは大学1年生の2月のキャンプ時点では習得に苦戦していた技術が、3月1日のオープン戦に先発した際に形になっていたことです。これには本当に驚かされました。そして、その年の春季リーグで47回2/3連続無失点を記録。プロ野球選手への道が一気に開けた瞬間でした。今年も怪我無く活躍してくれることを楽しみにしています。一球でも多く、雄姿を見せてください!
投手としての基礎を創ってくれた本荘監督
当時野球部のピッチングコーチだった本荘さんは、僕の大学野球生活のすべてと言えるほど大きな存在です。選手が意見を言い合える環境を整え、私の話にもしっかりと耳を傾けてくださりました。納得がいくまで親身に練習に付き合っていただき、最適な投球フォームやトレーニングの答えを導き出してくれたのです。今の私があるのは本荘さんのおかげだと心から感謝しています。

制服
思い出深い「もの」といえば、やはり硬式野球部の制服です。夏場などは練習の後に着替えて授業へ向かう必要があり、少し苦労もありました。しかし、今振り返れば関学アスリートとしての誇りの象徴だったと感じます。4年間の苦楽をともにした、大切な一着です。
当時のグラウンド
私たちが3年生になるまで、今の第3フィールドのような立派な専用球場はありませんでした。当時は1つのグラウンドに硬式野球部だけでなく、アメフト部やラグビー部、さらには中高の部活までもがひしめき合って練習しているような状況で、場所の確保が大変でしたね。しかし、あのグラウンドだからこそ感じられた活気もあり、今となっては懐かしい思い出です。