Meets at KWANSEI

伝えたいのは、不条理な社会を生き抜くことの尊さ。
物語の先に、明日を生きるための一筋の光を示したい。

十代の頃から小説家を志しておられた松永K三蔵さん。関西学院大学文学部をご卒業後、会社員として働きながら創作活動に取り組まれてきました。2021年に『カメオ』で第64回群像新人文学賞優秀作を受賞しデビュー。その後、2024年に『バリ山行』で第171回芥川龍之介賞を受賞されました。山と日常を対比しながら、会社や社会の枠の中で生きていくことのままならなさをリアルに描いた本作は、ご自身が学生時代を過ごし、現在もお住まいの西宮市・六甲山麓が舞台となっています。今回は、大学時代の思い出や、小説家を志したきっかけ、小説に込める思いについて、お話を伺いました。

開放的なキャンパスで、思う存分文学に向き合った大学時代

関学時代の思い出について教えてください。

初めて関学を意識したのは、大学受験を控えた時期でした。もともとは他県の大学を志望していたのですが、ちょうどその頃母を亡くし、大学進学後も地元で家族と暮らしたいと思うように。そこで関学を見に行って、キャンパスの美しさや開放的な雰囲気に心を奪われ、受験を決めました。
高校時代に太宰治にハマったことから純文学に興味をもっていた私は、文学部文学言語学科に進学。特に傾倒していた坂口安吾について、熱心に研究しました。関学の魅力の1つに、研究における専門性の高さが挙げられると思います。日本近代文学がご専門の細川正義名誉教授や、源氏物語の権威で、現在は東京大学で教壇に立つ高木和子教授など、偉大な先生方の指導を受けられました。また、神学部があることも関学ならではの特徴です。私自身、実存哲学など西洋の哲学にも興味があったため、神学部の授業にも積極的に参加したことを覚えています。そんな知的探求心をとことん満たせる環境で、のびのびと書いた卒業論文を、細川先生は高く評価してくださいました。高木先生から「このまま研究の道に進んではどうか」というお言葉をいただいたことも、とても嬉しかったですね。小説を書きたい気持ちのほうが大きく、大学院へは進みませんでしたが、関学での学びは、創作活動の礎を築く貴重な経験だったと思います。
学生時代は友人にも恵まれました。1年生の頃、体育の授業などを通して学部外とのつながりができ、友人が友人を呼ぶ形で交流が拡大。気づけば、仲間の多くが他学部の学生でした。中央芝生に集まり、研究や将来のことから何気ない話まで、ひたすら語り合う日々。学生生活を一層豊かなものにしてくれた、大切な思い出です。当時の仲間たちとは、今でもつきあいがあります。

人間の本質に迫る物語を描き続けたい

卒業後は会社員として働かれています。

卒業後就職する道を選んだのは、小説を書くために、社会でもまれる経験が必要だと思ったからです。当時は、就職氷河期と言われる時代。社会全体に鬱々とした空気がありましたし、苦労された方も多かったと思います。社会の中で生きていくことの苦しさにおぼれそうになりながらも、何とか生活を保って生きていく。それを実際に経験してきたことは、現在の創作活動に役立っていると感じます。
そもそも私が小説家を志すきっかけになったのは、14歳の頃に母から手渡されて読んだ、ドストエフスキーの『罪と罰』です。当時は本にはほとんど触れず、漫画ばかり読んでいました。あの時の雷に打たれたような衝撃と感動を、今でもよく覚えています。それまでの世界が平坦な平地だとしたら、この世には断崖絶壁が存在するのだと突きつけられたような体験でした。ドストエフスキーの作品は、醜さも美しさも全てを包含し、人間の本質的な価値とは何かを問いかけています。子どもながらに、自分もこんな小説を書きたいと思ったものです。この思いは、ずっと私の創作の根底にあります。

芥川賞の受賞を受けて、どのように感じておられますか。

純文学の世界は厳しいものです。芥川賞受賞は、作家にとってこの世界で生きていけることを示す1つの指標のようなものだと思います。この賞をいただけたのは、もしかしたら今の私に必要だったからなのかも知れません。小説の世界で果たすべき役割がある、そう受け止めています。
私は、作者の想いが純粋に表れている作品が心を打つと信じています。これまで書きたいと思うままに、自分が聞いたこと、経験したこと、感じたことを小説に表現してきました。毎朝喫茶店に行き、必ず2時間小説を書いて出勤するという生活を送ってきましたが、創作を苦痛に感じたり、義務感で書いたりしたことはありません。私にとっては、生きるうえでの苦労のほうが重要なのです。実際に経験した苦労こそが、同じ社会を生きる読者と共有できるものだと思っています。
今後は、日本の社会を飛び出して、世界の様々な「現実」を知りたいと考えています。大学2年生の時、一人でインドを訪れました。インドで目の当たりにした、日本とは全く異なる景色、におい、雰囲気、そして人々の様子を忘れることができません。そこで生きる人々の経験することや幸・不幸の感覚は、日本で暮らしている私には想像もつかないものかもしれないと感じました。人の一生とは一体何なのだろうと考えさせられた貴重な経験です。私は、人間にとっての本質的な問題と言えるような時空を超えたテーマに、小説を通してアプローチしたい。そのためには、日本の外の現実も、身をもって知ることが必要だと考えています。

「偉大なる勘違い」が見せてくれる景色がある

最後に関西学院に通う後輩へメッセージをお願いいたします。

今は、とにかく生きていくことが大変な時代。私自身も不安定な道を歩いてきました。それでも、何とかなってきたと思っています。むやみに恐れて、自分の選択肢や可能性を狭めるのはもったいない。やりたいことが見つからない人は、初めてのことに挑戦してみてください。助けが必要な人に手を差し伸べてみてください。声をかけるだけでもいい。一歩踏み出せば、新しい視点が得られます。若い時こそ、根拠のない自信をもち、時には壮大な勘違いもしながら、自分の信じる道を歩んでほしいです。突き進めば失敗もするし、挫折を味わうこともあります。でも大丈夫!壁にぶつかった時に散った火花が、新しい道を照らしてくれるはずです。

人との出会い

関学の文学部で出会った親友

関学では大切な出会いがいくつもありましたが、同じ文学部で出会った親友とは、現在も頻繁に連絡を取り合っています。信頼できるセンスの持ち主で、小説を書く時は、必ず彼に読んでもらいます。実は、デビュー作『カメオ』には、彼の的確な指摘を受けてある重要なシーンを書き換えたという創作秘話が。

モノとの出会い

母の形見のペン

母が生前にもっていた赤ペンです。私はノートに手書きして小説を考えるのですが、そこに赤字をいれる際に使っています。私の原点は、母の薦めで読んだドストエフスキーの『罪と罰』。なぜ本を読まない子どもだった私に『罪と罰』を手渡したのか、今でも不思議ですが、母のおかげで、小説家としての今があると思います。

場所との出会い

大学時代に訪れたインド

大学2年生の時、開高健のエッセイに影響を受けて単身訪れたインド。英語も通じないような小さな村で、子どもたちと仲良くなりました。言葉を介さずに身振り手振りで交流する経験を通じて、人間にとって大事なものは、言葉にならないところにあるのではという思いを抱きました。