諦めることなく追い続け、叶えた夢。歴史に残る瞬間を捉え、スポーツの力を伝えたい。
関西学院高等部を経て、2008年に関西学院大学経済学部を卒業された柳原直之さん。三菱東京UFJ銀行(現三菱UFJ銀行)にて銀行員を経験後、中学生時代から抱いていたスポーツ記者になる夢を叶えるため、2012年にスポーツニッポン新聞社へ入社されました。翌年には自身も幼少期から続けていた野球の担当記者になり、2014年には北海道に赴任し、北海道日本ハムファイターズを担当。その後、2018年に東京へ戻り、MLB(メジャーリーグベースボール)担当記者になりました。野球記者としてのキャリアを歩み始めてから現在に至るまで11年間、大谷翔平選手を追い、多くの歴史的瞬間に立ち会ってきた柳原さんは、多数のメディアにも出演。2024年3月には大谷選手に関する記録をまとめた書籍も発刊されています。今回は、高等部・大学時代の経験や、仲間との出会い、そして現在のお仕事にかける思いについてお伺いしました。
文武両道にこだわり、野球に打ち込み続けた7年間
関西学院高等部・大学での思い出について教えてください。
関西学院は実家から徒歩5分ほどの近い距離にあり、中学生の頃、関学高等部野球部の練習会に行ったこともありました。小学校1年生の頃から野球を始め、中学では軟式野球部に所属。高校生になったら、甲子園をめざしながら勉強にも打ち込み、文武両道を実現したいと思っていました。そんな折に、関学高等部野球部が夏の兵庫県大会で準優勝。理想を叶えるにはここしかないと感じ、進学を決めました。
高等部は、まるで大学のように自由度が高く、自主性が求められる環境。私は、理解力や行動力に優れた同級生たちの中で埋もれないよう、自分なりの存在感を発揮したいとあがいていました。文化祭の実行委員長に立候補し、務めたこともありましたね。また、当時から新聞のスポーツ欄が好きでスポーツ報道に携わりたかったため、活字に慣れるよう、図書館で本を読みあさりました。ある年の読んだ書籍の数は年間100冊以上。この数は学内でも上位で、表彰も受けました。
硬式野球部でも同様に、もがく日々を過ごします。部員数が120名にも上る大規模な部で、私と同じ投手だけで30人ほどいました。結果を出さないと上のチームに上がれない厳しい環境で、何とかのし上がろうと、がむしゃらに練習したものの、最終学年では怪我もあってベンチ入りが叶わず。憧れの甲子園に挑戦することすらできず、とても悔しかったのを覚えています。勉強でも野球でも、高等部でレベルの高い世界を経験しました。挫折を味わいましたが、自分の強みは何か、どうすれば世の中を生き抜けるかということを、周囲からの評価も踏まえて考える力が自然と身につきました。この力は今の時代にこそ必要だと、マスコミの仕事に従事する中で、特に実感しています。
こうした高校時代を過ごし、大学でも勉強も諦めず、本気で野球に打ち込みたいと真剣に考えました。そして入部した軟式野球部(現準硬式野球部)では、全国優勝やリーグ戦での個人タイトルを複数回獲得。関西選抜チームの一員として、海外遠征も経験させてもらいました。諦めずに野球を続けて本当に良かったと思います。仲間と何かを成し遂げるという経験は、その後の人生における全てに生きます。高校・大学時代を共に過ごした野球部のメンバーは一生の仲間です。皆、現在は幅広い業界で精力的に活動しており、忙しい人も多いですが、今でも定期的に会っています。
自分の仕事に誇りをもち、野球記者として生きる
卒業後は銀行に勤められたのちに、スポーツニッポン新聞社に入社されています。
中学生の頃から将来の夢は新聞記者になりスポーツ報道に携わることでしたが、就職活動が上手くいかず、銀行に就職しました。しかし夢を諦めきれず、銀行で働きながら、第2新卒という形で再び新聞社に挑戦。人事部から顔を覚えられるほど、何度も面接に行きました。その粘り強さが功を奏し、大学時代から含め3度目の挑戦で、現在も勤めるスポーツニッポン新聞社に合格。関西学院で学んだ継続することや行動を起こすことの大切さを改めて感じました。
ただ、記者になるまで遠回りをしたことも、意義深い経験になりました。社会に対する広い視野を得られましたし、銀行員時代の上司に教わった「うそをつかない、かっこつけない、言い訳しない」、「どんな小さな仕事でも馬鹿にせず全力で取り組め」という言葉は、今でも私の行動規範となっています。
スポーツニッポン新聞社でのお仕事について教えてください。
1年目の2012年は編集センターに配属されて紙面のレイアウトなどを経験し、2年目に野球担当の記者となりました。そして3年目の2014年に北海道に転勤して北海道日本ハムファイターズを担当。2018年に東京に戻って以来、現在もMLB(メジャーリーグベースボール)を担当しています。MLBの取材現場で、イチロー選手をずっと追ってきた共同通信社の小西記者やスポーツニッポン新聞社の奥田通信員、ロサンゼルス・ドジャース取材歴約30年の盆子原記者など、多くの関学卒業生が活躍していることが誇りです。北海道日本ハムファイターズ・宮西選手、千葉ロッテマリーンズ・荻野選手といった大学で同学年だった野球選手が人脈をつないでくれることもあり、関学生の絆を感じます。
大谷翔平選手の囲み取材で質問する柳原記者(手前右)
これまで、大谷翔平選手をはじめ著名な選手の取材を担当してきました。大谷選手の囲み取材には毎回参加し、それ以外にも単独インタビューを通算10回ほど行っています。正式な担当歴は11年ですが、初めて出会ったのは2013年頃で、現在彼を担当する記者の中でも最古参です。大谷選手のロサンゼルス・エンゼルスとロサンゼルス・ドジャースへの入団会見、4年連続4度のオールスター、2023年のWBC、韓国での開幕戦など歴史的瞬間を継続的に取材してきたことを誇らしく感じます。歴史に残るような出来事を記事にできることが、仕事の大きなモチベーションです。書いた記事は、私が死んでも残る、自分が生きた証のようなものでもあると思っています。
記者は、自分の生活の多くを仕事に費やす職業で、好きでないとできないとつくづく思います。スポーツのもつ力、世の中への影響力は凄まじいもの。子どもの頃から好きだった野球に関わって、スポーツの価値を発信できることがやりがいです。紙面やインターネットに署名記事を出す中で、批判を受けたり、叩かれたりすることもありますが、様々な意見を受けて、さらに良い記事を書くために次はこうしようという考えが自然と湧いてきます。私にとっては面白くて仕方ない仕事です。
今後の目標は、大谷選手の引退まで担当記者として務めあげること。2024年3月には彼を追ってきた10余年の記録をまとめた書籍を発刊し、長年取材する記者として、等身大の大谷翔平の姿を綴ろうとしました。この先も、私しか伝えられないことを、書籍や記事という形で発信したいと考えています。
何より大切なことは、恐れずチャレンジし、継続すること
最後に関西学院に通う後輩へメッセージをお願いいたします。
大学の入学式で当時の平松学長が送られた、「Think globally, act locally」(地球規模で考え地域で行動する)というメッセージが今も心に残っています。どう学ぶか・行動するかが何より大事なのだと背中を押されました。今はとにかく、様々なことにチャレンジしてください。行動を起こすことと、継続することが大切です。そして卒業後は、安心して社会に飛び込んできてください。それが東京でも、海外でも恐れることはありません。社会には素晴らしい関学卒業生がたくさんいます。悩んだり困ったりした時は相談してください。一緒に頑張りましょう。
人との出会い
高等部野球部監督
広岡 正信先生
広岡先生は記憶力がすさまじく、試合展開を読む力に長けていました。さらに選手を奮起させるのが非常に上手い。先生は高校生を一人の大人として扱うので、こちらも必死に食らいつくしかないと感じていました。私にとってそんな人は初めてでした。今もお会いする時はいつも緊張してしまいます。
モノとの出会い
愛用していた野球帽
試合の時に被っていた帽子です。高等部時代から大学を経て、今も大事にとっています。小さい頃から野球に打ち込み、高等部では挫折も経験しましたが、大学で続けていて良かったと思えました。今の仕事も、これらの経験があったからこそ。この帽子には、私の野球人生の思い出が詰まっています。
場所との出会い
東京庵(トンキンアン)
体育会系の学生が集まる食堂です。練習終わりや休み時間に野球部の仲間と入り浸り、たわいもない話を繰り返していました。いつも大盛を出してくれるおばちゃんは皆のお母さんのような存在。心暖まる場所でした。関学には、こんなふうに仲間と過ごす場所がたくさんありました。