OG・OB INTERVIEW

OG・OB INTERVIEW

関西学院大学卒業後、北海道日本ハムファイターズへ入団した宮西さん。
数少ない左のリリーフ投手としてプロ入り10年連続50試合に登板し、通算250ホールド達成などの記録を樹立してきました。
輝かしい成績を残し、活躍されている宮西さんに、学生時代の思い出やこれまでの野球人生についてお話をうかがいました。

― 宮西さんは小学校から野球を始め、市立尼崎高校時代から有力選手として注目されてきましたが、なぜ関西学院大学へ進学を決めたのでしょうか。

 主な理由は二つあって、まず一つ目は高校時代の野球部の先輩、金刃憲人さん(元・東北楽天ゴールデンイーグルス)の存在です。同じ左腕投手なのですが、制球力がとても高く、球が速い。僕の憧れでした。その金刃さんは、高校卒業後、立命館大学へ進学して野球部でプレーしていたんです。今までは背中を追うだけの存在でしたが、いつしか「エースとして勝負したい!越えていきたい!」という思いが芽生えてきました。同じ関西学生野球連盟に所属している関西学院大学なら、リーグ戦で金刃さんと試合ができると考えたんです。
 そしてもう一つは、関学硬式野球部の本荘監督(現・助監督)からの熱心なラブコールです。高校でプレーしていた頃に、一番に声をかけていただきました。でもそのときはほかの大学も見てみたいという思いがあったので、他大学の練習に参加したことがあったんです。するとそれを聞きつけた本荘監督からすぐに、「うちに来てくれ!」と連絡が。こんなに僕を必要としてくれているんだと、その熱意がうれしかったですね。
 あとはやっぱり僕は尼崎出身なので地元でプレーしたいという想いもあったし、関学はいい学校だという話はよく聞いていました。野球をするにも、学ぶにも、高校卒業後の次のステージとして関学は僕にとって最高の環境だと思い、進学を決めました。

― そのような強い思いで入学された関西学院大学硬式野球部での4年間はどのようなものでしたか。

 僕自身の思いを一言で表すと「失敗の4年間」ですね。今振り返ってみてやっと分かるのですが、僕は本当に自己中心的な選手でした。苦い思い出しかないですよ。というのも、当時の僕は、「投手の役割は相手に点を取られないことだから、自分が頑張りさえすれば、負けることはない」という大きな勘違いをしていたんです。おまけに「プロ野球選手になるために、個人として、チームとして、早く結果を出さないと」っていう焦りがあって……。その結果、独りよがりのプレーになっていたと思います。野球部の仲間たちには迷惑をかけてしまいました。正直、一番帰って来づらい場所でもありますね(笑)。

― 大学在学中に、北京オリンピックプレ大会や第16回IBAFインターコンチネンタルカップなど、何度か日本代表に選出されているほどなので、「失敗の4年間」とは意外でした。

 1年生のときは、試合のメンバーに入ることができなくて。「金刃さんより上にいく!」っていう目標があったので、悔しかったです。でもその分、本荘監督がつきっきりで見てくれました。試合前や試合中でも一人走らされていましたが、今振り返ってみるとこのことで土台が作れたんだと思います。
 そしてそれが2年生で開花し、春季リーグ戦で連続無失点記録(当時)を更新することになりました。さらに、日本代表にも選ばれるようになり、プロ野球選手になるという子どもの頃からの夢が、現実味を帯びてきたんです。でも、だからこそ余計に「このままじゃダメだ。もっと強くならないと」という焦りがつのりましたし、「エースとして、自分が勝利へと導いていかないと」という責任感にも苦しめられていましたね。
 3年生のときには「速い球を投げたい。試合で勝ちたい」という思いが強くなりすぎたせいか、投げる時に力んでしまい、投球フォームも安定せず、試合に出ても打たれるばかり。最悪の状態で、リーグ戦中に心が折れてしまいました。それでもなんとか頑張れたのは、チームメイトの支えがあったからだと思います。
 そうそう。本荘監督に、野球の考え方の違いで反抗したことが何度もありますよ。監督に歯向かうなんて、考えられないでしょ(笑)。とにかく、何かにつけて焦っていましたね。でも当時はそのことに気づかず、結局大学生活の最後までスランプから抜け出せませんでした。

宮西さん

大学での苦しんだ経験が、
今、プロとしてチームを引っ張る僕の支えになっている。

― 輝かしい成績の裏には、精神的な苦しさがあったのですね。野球部の仲間との関係はどのようなものでしたか?

 野球部にはプロや社会人野球をめざしている人、そうではない人それぞれいましたが、みんな優勝に向かって全力で取り組んでいました。それなのに僕はエースとして自分がやらなければと思いすぎて、仲間に弱みを見せられず、つらくてもなかなか相談できなかった。仲間も、そんな僕に何も言えなかったと思います。特に、バッテリーはいろいろと話し合って、意思疎通を図らなければなりませんが、4年生のときに組んでいたキャッチャーは後輩。「ここがダメ」なんて、とてもじゃないけど言えなかったでしょうね(笑)。僕は僕で、「とにかく引っ張らないと!」とばかり思っていて、コミュニケーションをとることまで気が回りませんでした。
 不調続きで結果が出ず、イライラして、独りよがりのプレーばかり…。でもそんな僕に対して、キャプテンは最後のリーグ戦後に、「お前のおかげで、ここまでこれた」って言ってくれたんです。そんなふうに思っていてくれたのか……。その言葉はずっと胸に残っています。今でも、会ったときは「プロでよく投げてるなぁ」と自分のことのように喜んでくれるんですよ。本荘監督にしても、野球部の仲間にしても、いい人たちに巡り会えたと思います。

― 3、4年生のときには思うような結果が出せず苦しみながらも、北海道日本ハムファイターズへの入団が決まり、卒業後はプロの野球選手に。関西学院大学で過ごした4年間は、その後の宮西さんにどのような影響を与えましたか?

 最初の1、2年は大学時代と同じで、まだ焦りがありました(笑)。プロとして結果を残さなくちゃ!という気持ちでいっぱいいっぱい。相変わらず自分のことしか考えられず、打たれたら腹が立つし、勝ったときと負けたときの気持ちの波が激しかったです。よく先輩たちになだめてもらっていましたね。
 ですがプロとして年数を重ねていくうちに、次は僕が後輩を指導していく立場に。2015年にはキャプテンに就任し、一回り年下の選手たちとも接する機会が多くなりました。彼らを見ていると、大学時代の自分と重なって見えるんです。「アイツ焦っているな」とか「若い子なりの考え方があるんだ」とか、理解できるようになりましたね。きちんと周りが見られるようになって、あの4年間を振り返るようになりました。だからそういう選手たちには、「焦るなよ」とかいろいろと声をかけるようにしています。大学時代の経験がなかったら、苦しんでる選手の気持ちに気付けず、こんなふうにチームを引っ張っていけなかったかもしれません。それに気付くまで、随分時間がかかってしまいましたが。
 あとは、メンタルも鍛えられたと思います。去年はプロ野球人生10年の中で一番不調でしたが、意外と焦りはありませんでした。大学のときに、スランプに陥っても抜け出せた経験があったので、気持ちを落ち着かせて粘り強く投げ続けることができました。2015年はキャプテンに選ばれたにもかかわらず、シーズン中に故障して、しばらく戦線から離脱していましたがそのときも焦らずに、トレーナーの言葉を信じてトレーニングに励んでいましたね。いつの間にか周りの人の言葉をきちんと受け止められるようになっていたんです。そのおかげで、短期間で1軍に復帰することができました。まぁそのときは僕よりもむしろチームの方が焦っていて、「すぐにでも復帰してくれ!」と言われた……というのもあるかもしれませんが(笑)。

試合風景

― その復帰が、昨年の通算250ホールド達成や10年連続50試合登板達成などの記録に結びついているんですね。今後はプロ野球選手として、またひとりの社会人として、どのような道を進んでいきたいとお考えでしょうか。

 去年は僕もチームも成績があまり良くなかったので、今シーズンは結果を出したいと考えています。優勝できるよう貢献したいし、毎年そのシーズンを「満足して終わりたい」と思っていますよ。個人的には、前人未到の300ホールド達成などの記録を打ち立てたいという思いもあります。
 もう少し大きな話をすると、選手みんなの力で日本ハムを魅力あるチームにして、北海道を盛り上げていきたいと考えています。北海道は今野球人口が減っているので、まず第一に盛り上がる試合をすることが、チームとして野球界や地域に貢献できることだと思っています。だから今は「自分のために野球を頑張っている」というよりも、北海道のみんなのために、野球界のためにという思いのほうが強いですね。関学のスクールモットーの「Mastery for Service」って、こういうことなのかなと感じています。
 また、球団として社会のために取り組んでいるのは「iCareほっかいどう」の支援。手足を動かすことや、声を出すことができない意思伝達支援機器利用者のために、リリーフ投手陣が、1ホールド、1セーブにつき1万円を寄付しています。僕がキャプテンになった2015年から始めた取り組みで、何か地域のためにできることは無いかと考えていたときに、ちょうど球団から社会貢献活動についての話を聞く機会があり、「やりたい!」と手を挙げたんです。選手として、ひとりの社会人として、いろいろな方法でこれからも社会に何か還元していくことができればと思います。

― スクールモットーである「Mastery for Service」の精神がプロになった今も息づいているのですね。
では最後に、関学OBとして、この記事を読んでいる保護者の方へメッセージをお願いします。

 お子さんのことでいろいろと心配もあるかとは思いますが、今はそっと見守ってあげてください。大学時代は社会に出る一歩手前。この4年間は自分で失敗し、あれこれ考えるための4年間だと思います。僕の大学時代は言わば「失敗の4年間」でしたが、その経験があったからこそ、たくさんの気付きや成長があり、それが今、チームを引っ張る力へとなっています。同じように、大学生の頃に悩んだり考えたりしたことが、お子さまが社会に出たときに、いつか自分自身を助ける力になるはずです。だからどうぞお子さんを信じて、見守ってあげてください。

PROFILE

試合風景

宮西 尚生NAOKI MIYANISHI

みやにし なおき / 関西学院大学では硬式野球部に所属。在学中に北京オリンピックプレ大会などの日本代表メンバーに選出されたことも。卒業後は北海道日本ハムファイターズへ入団。リリーフ左腕として数々のホールド記録を樹立。WBC日本代表としても活躍。

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