Best Supporters

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File 1亀山 督さん

ただ黙って背中を見守り続けることが、私にできる最大のエールです。

大学2年次から常勝集団FIGHTERSのワイドレシーバーの座を託され、チームの中心で闘い続けてきた亀山暉。強敵にも決して怯まない勇姿のすぐ後ろにはいつも、彼を信じて見守る父がいた。

亀山 督さん

いつも親の想像以上を見せてくれる、息子の姿を応援していたい。

K.G. FIGHTERSにおける亀山暉選手のこれまでの活躍、非常に素晴らしいものでした。大学を卒業され、ユニフォーム姿がもう見られなくなるのが残念です。
亀山さん ありがとうございます。ラストゲームになった甲子園ボウルは、残念ながら日大に破れ、日本一の座を守ることはできませんでしたが、最後まで仲間と共に死力を尽くして闘ったことは、息子にとって大きな財産になったのではないかと思います。
K.G. 本日は、関学のスタープレイヤーの一人である亀山暉選手の活躍を、お父様が一番近い場所からどのように応援してこられたのかをお聞きしたいと思います。
亀山さん 息子がそのように言っていただけるのは、監督はじめFIGHTERSで指導してくださった方々のおかげです。私自身はアメフトの経験もありませんし、何かの競技で日本一を争ったこともありませんので、息子に競技についてアドバイスすることは全くありません。選手としての息子の成長に、自分が何か後押しできたかどうかはわかりません。ただ、その代わりといっては何ですが、FIGHTERSの試合があれば必ず応援に行きました。妻も娘も一緒にです。
K.G. 全ての試合を観戦に行かれるんですか。
亀山さん アメフトの試合はそれほど試合数が多くなく、春に6ゲーム、秋に11ゲームくらいですから何とかなりますね。
K.G. そうは言っても、お仕事の都合などで観戦が難しいこともあったのではないですか?
亀山さん 確かに、無理やり都合をつけて駆けつけたこともありました(笑)。
K.G. そこまで一生懸命に応援してこられたのは、なぜですか。お子さんの競技にそれほど関心を持たれないご両親も、中にはいらっしゃると思いますが。
亀山さん この取材の話をいただいて、改めて息子について考えてみたんですが、私たちにとって息子は、非常にインタレスティングな存在なんです。
K.G. と言いますと?
亀山さん 一度自分の腹が決まれば、とことん取り組み、親の想像以上の結果を見せてくれる。それに私たちはいつも驚かされます。アメフトもまさか自分の息子が、甲子園ボウルに出場する選手になるとは想像もしませんでした。夢の舞台ですからね。私も妻も、そういう息子の姿を見ていたいんです。
K.G. 息子さんの成長を一番実感されたのは、どんなときですか。
亀山さん 2年生になる年の春、関西学院創立125周年記念行事の一環として行われた国際交流試合「LEGACY BOWL」において息子が初めてスターター(先発メンバー)に選ばれ出場しました。またそのときの対戦相手であったプリンストン大学(米国)の記者会見と歓迎行事においては、通訳を務めさせていただきました。このような晴れの舞台でさまざまな活躍を見せる息子の姿を見て、大変うれしく感じました。
K.G. ご両親の想像を越える成長を遂げていく裏には、きっと並大抵でない努力があるのでしょうね。
亀山さん ええ、それが伝わってくるから、私たち家族も全力で応援しています。

逆境を経験する中で、そこでしか学べないことに気づき、力に変えてほしい。

K.G. 亀山暉選手は中高時代に、関学の継続校である啓明学院のアメリカンフットボール部で頭角を現し、主要選手として活躍されていました。関西学院大学のFIGHTERSに入部されてからは、1年次で選手に選ばれ、2年次で早くもレギュラー入りされています。ポジションは、パスプレイの主役となるワイドレシーバーですね。そして4年次には、チームの中核の1人に。このような経歴を拝見すると、非常に順調に有力選手への階段を上っていかれたように見えますが。
亀山さん いえ、その過程では彼なりに何度も苦しい思いを経験してきたと思います。大学に入学してすぐに鎖骨を骨折したときもとても落ち込んでいました。少しでも早く実力を認められ、活躍したいという気持ちがあったのに、せっかくのチャンスを棒に振ってしまったと、気持ちの整理がつかない様子でした。実は鎖骨を折るのはこれが2回目で、高校3年生のときも大切な国際試合の前日に骨折して試合に出場できなかったことがあったんです。
K.G. 見守っているご家族のお気持ちは…。
亀山さん やはり辛かったですね。自分のことならまだ消化できますが、息子の落ち込みを救ってやることはできませんから。しかし私としては、このような逆境からも息子がいろいろなことを学んでくれると信じていました。

スタジアムで4人で撮った唯一の写真
最後の試合となった甲子園ボウルの会場にて。スタジアムで4人で撮った唯一の写真は、きっと一人ひとりの想い出に残り続けるはず。

K.G. それはどのようなことですか。
亀山さん 例えば、サイドラインからチームを眺めながら、出場している選手が何を背負って戦っているのかを想像してほしい。それを知っている選手というのは、きっと戦いぶりが変わるはずです。また試合に出られないことで自暴自棄になるのではなく、そんな自分がチームのためにできることは何かを考えてほしい。試合に出ている人だけがFIGHTERSではないはずです。そして今後につながるように、怪我をしない注意深さも身につけてほしい。考えていたのは、そんなことですね。面と向かって多くは語りませんでしたが、「この怪我はきっと何かにつながる」。そんなふうに声をかけたと思います。
K.G. 息子さんが苦しんでいるとき、いつも励ましの声をかけるのですか。
亀山さん いえ、息子は苦しいことを、たやすく親に打ち明けるタイプではありませんから。何かあったかな、と感じることはあっても、私たちは大抵普段通り彼に接していました。
K.G. 何か具体的に支援をされることはありましたか。
亀山さん 特にこれといってないのですが…、あれは2年生のときだったかな。平常心を保つために、生活にルーティーンを取り入れはじめました。試合の2日前に何をして、前日に何をして、という決まり事をつくって自分のリズムを作り出すようにしていましたので、家族はそれにできる限り協力していました。

めざしているのは、よき応援者。息子が自分の人生を歩む姿を見守っていく。

K.G. 亀山暉選手は2年生のときに突然レギュラーに抜擢されましたが、そのときの様子はどうでしたか。
亀山さん ワイドレシーバーを務めていた4年の先輩が引退され、息子が早々とレギュラーになりましたが、このときは、関学という最高峰のチームのレベルの高いメンバーに力が及ばず、学生コーチから「亀山は関学のスタメンをはれるレシーバーじゃない」と罵声を浴びせられたこともあったようです。息子はこのようなことを家で話しませんので、私たちは全く知りませんでした。先日、甲子園ボウルが終わった後に「関学スポーツ」で息子の記事が掲載され、それを読んでいてはじめて知ったのです(笑)。「飛んでくるボールに対する恐怖心で頭がいっぱいになった」とも書かれていました。私たちの知らないところで、彼はギリギリの戦いをしていたんです。
K.G. もっと親に心情を打ち明けてほしい、相談してほしいとは思われませんでしたか。
亀山さん ホンネを言えばそういう気持ちもあります。しかし、私はいつも息子に対し、よき応援者でいたいと思って接してきました。よき応援者というのは、彼の行き先を指し示す指導者ではありません。何かを決断するときは、必ず自分の意志で決め、それを全力でやり抜いてほしい。それは彼の人生ですから。私の役割は、そんな息子を信じて見守っていくことだと思ってきました。もし彼が私を頼ってきたらそのときは父親としてしっかり応えたいと思いますが、人の力を頼らずに自分で乗り越えたいと考えるなら、私はそれをただ黙って見守りたいんです。
K.G. 子どものことになると、親はどうしても口を出したくなってしまいます。それを抑えて、見守っていらっしゃるんですね。幼い頃からそういう接し方をしてこられたのですか。
亀山さん ええ、暉が幼い頃は、私の仕事の都合でドイツやニューヨークに住んでいたこともあり、なかなか思い通りにならない環境の中でたくましく育ってくれるように、子ども自身に決断させることを大切にしてきました。そういえば、暉が小学生の頃、アメリカでこんなことがありましたね。息子は英語が不自由だったため最初は日本人学校に通っていたのですが、あるとき学外のテニスの試合で判定がもつれ、相手のアメリカ人と直接やり取りをする場面で、彼が言い負かされたことがありました。「本当は自分の主張が正しいはずなのに」と、それが相当くやしかったようです。語学力を高めるために「現地校に転校したい」と言い出しました。
K.G. まだ小学生だった暉さんが言い出されたんですね。
亀山さん そうです。私は心の中で「本当に大丈夫か?」と思いましたが、息子の決心を尊重すると決め、見守ることにしました。「嫌になったからといって、もう一度転校することはできないぞ」。そう念を押しましたが、息子はしっかりと頷きました。現地校では日本人は完全なマイノリティですから、面白くないことも、おそらくたくさんあったのだろうとは思います。どこかで音を上げるのではないかとも思っていました。しかし、本人はその後頑張って言葉の壁を乗り越え、現地のリトルリーグで代表選手に選ばれるなどの活躍を見せてくれました。私と息子の関係は、そういう一つひとつのやり取りからできあがっていったのではないかと思います。

亀山 督
亀山さんのスマホ
熱烈なFIGHTERSのサポーターである亀山さんのスマホは、会社用も、個人用も、どちらもブルーのケース入り。

何もかも話す仲ではないけれど、家族としてしっかりつながっている。

K.G. 手を差し伸べるのは簡単ですが、息子さんを信じて見守るというのは、なかなか難しいことのように思います。
亀山さん 思えば私自身も、父から随分自由にさせてもらったと思います。父もそんな気持ちで見守ってくれていたのかもしれません。
K.G. そんな亀山さんの想いは、彼に伝わっているでしょうか。
亀山さん さあ、どうでしょうか。それはわかりませんが、息子は大きな試合の日の朝には家族のグループラインに必ずメッセージを入れてきます。
K.G. どんな言葉でしょうか。
亀山さん 「いつもありがとう。今日は必ず、今までサポートしてくれたことに報いる試合をします」。短い言葉です。でも、それが彼なりの誠意なんですね。私はその言葉の深さを考えずにいられません。今まさに大事な試合に向かう最中、きっと考えることは山ほどあるはずですが、その中で家族への感謝を忘れない息子を、私は少し誇らしく思います。「頑張れ」と心から言いたい。それは家族全員が同じ気持ちだと思います。
K.G. 感謝の気持ちをしっかり持っている選手というのは、どのスポーツを見ても強いですよね。家族に見守られていると感じるからこそ、亀山暉選手は思い切ったプレイができたのかもしれません。この春には大学を卒業されますが、今後はどんな人生を歩んでいってほしいですか。
亀山さん 私自身は、座右の銘として「人間万事塞翁が馬」という言葉をいつも胸に置いています。良い状況が悪い結果につながったり、悪い状況が良い結果につながったり、禍福は予想できません。それならば目の前のことにとらわれ過ぎずに常に今を前向きに受け止め、真摯に生きていこう、という意味の言葉です。息子にもこのような柔軟な心を持ち、力強く自分の人生を歩んでほしいと思います。そして、これまで以上に人から頼りにされる存在になってほしい。私は今後もそんな息子の歩みを見守りたいと思います。
K.G. 今日のお話から亀山暉選手の強さの秘密が、少しわかったような気がします。どうもありがとうございました。

自分が家族を持ったときには父や母のような親になりたい。

亀山 暉 関西学院大学 国際学部 4年生

大学の4年間、中学からを含めると10年間、こうしてアメリカンフットボールに夢中で取り組めたのも、全ては父をはじめとする家族の支えがあったからこそだと思っています。両親は、自分がフットボールにより集中できるように、本当にたくさんのサポートをしてくれました。家に帰れば栄養満点のご飯、練習で使ったものは次の日には洗濯されている、また防具など、競技に必要なものは惜しみなく与えてくれる。心の面においても、自分の様子が少し変だとすぐに気付いて声をかけてくれたり、試合前のルーティンにも付き合ってくれたりと、最高の環境で競技を続けることができました。これまでたくさん支えてもらった分、今後は家族に恩返しをしていきたいと思うと同時に、将来自分が家族を持ったときには、父や母のような親になりたいです。これまで本当にありがとう。

かめやま あきら/幼少期はドイツ・ハンブルグ、アメリカ・ニューヨークで育つ。中学より啓明学院に進学。関西学院大学入学後はFIGHTERSに入部し、2年次よりワイドレシーバーのポジションを一任され、チームの中心選手として活躍。2018年4月より、全日本空輸株式会社に入社予定。